8月歌舞伎座 納涼歌舞伎

kenboutei2013-08-18

恒例の納涼歌舞伎も歌舞伎座に帰って来た。ただ、そこに勘三郎がいないことを思いつつ、通しで観る。
第一部
『野崎村』
福助のお光。
全体的に過剰表現を抑え気味で前回よりはマシになっていた。(しかし、時々その地が出てしまっていたが) 尼になってからは、悲しみに深みが出て、良かった。小道具の扱いや押し入れの閉め方などは、ぞんざいすぎる。
七之助のお染は、美しくおっとりとした感じが良い。
弥十郎の久作は、義太夫味が薄く、味わいに乏しい。
扇雀の久松、東蔵の母親。
まずまず及第点の「野崎村」
『鏡獅子』
七之助初役時の硬さ、ぎこちなさは、さすがになくなった。獅子より弥生の方が良い。二枚扇は、まだ手馴れていない。獅子の毛振りは、雑。
小山三まだまだ元気。
月前半の勘九郎のを観られなかったは残念。

第二部
『髪結新三』
三津五郎の新三。初役時は見逃しているので、今回自分は初見。
勘三郎ほどの愛嬌はないが、腹に一物秘めた、心の闇を垣間見せる新三像は新鮮。永代橋でのつらねは、力強さと的確さで聞きやすいが、爽快感は薄い。
新三内は、愛嬌がない分、お熊を手籠めにした悪の色気の方を感じさせる。大家とのやりとりは、まずまず。
弥十郎の大家が意外の上出来。勘九郎の勝奴は、過度に出しゃばらず、程よい出来。
橋之助の源七、やたら自分の名前を言って虚勢を張るところが面白い。合っていたと思う。
扇雀の忠七は柔らか味があって良い。
児太郎のお熊、芝居を壊さない程度の台詞回しはできるようになった。
萬次郎の後家お常、秀調の車力善八は安定。大家女房は亀蔵
『かさね』
福助橋之助。全体的に良かった。特に福助のかさねは、雰囲気があって良い。裏切られる哀れな女性、顔が醜くなり、足をひきずりながら、女性の哀しみと恨みがうまく表現できていた。
相手となる橋之助の与右衛門も良かった。
成駒屋兄弟、久しぶりのヒット。

第三部
『狐狸狐狸ばなし』
前に観ているようだが、ほとんど覚えていなかった。その分、新鮮で面白かった。
七之助のおきわがはじけて良い。こういう役だとイキイキしている。
それ以上に扇雀の伊之助がはまり役。元上方役者という設定にぴったり。フットワークも軽い。
橋之助の重善は、坊主役のせいか、勘三郎と被る。もっと自分の個性を発揮してもらいたいところ。
勘九郎の又市、なぜ作り阿呆になっているのか今一つ不明。これは脚本の問題かも。
亀蔵の牛娘。
それにしても、「気違い」をこれだけ利用するのは、今なら通用しない創作だろう。最後のオチも、今の時代の目からは笑えないし、風刺としても問題。(たぶん、またすぐ忘れてしまうけれども。)
『棒しばり』
三津五郎勘九郎。次郎冠者の方で三津五郎を見るのは、これが初めて。棒でしばられたまま扇を扱う箇所で、一度失敗していたが、さすがにキレのある動き。ただ、酒を飲む場面はあまり面白いとは思えなかった。勘九郎はまずまず。
弥十郎狂言風の言葉がうまくない。

竹三郎の会

kenboutei2013-08-11

大阪、国立文楽劇場にて「傘寿記念 坂東竹三郎の会 〜四世尾上菊次郎三十三回忌追善〜」を観る。二日興行の二日目夜の部、すなわち千秋楽。過去にも珍しい演目を出して定評のあった「竹三郎の会」を観るのはこれが初めて。プログラムによると今回で最後とか。
『女団七』
初めて観る。『夏祭』を女に書き換え、舞台も大阪から江戸に。
団七お梶に猿之助。スッキリといなせな感じを出しているのはさすが。しかし、団七もやれる役者である分、どうしても自分の頭の中で団七に変換して観てしまい、男女入れ替え趣向の驚きや新鮮味には乏しかった。こういう男から女という書き換えの場合、本当は真女形がやるべきなのかもしれない。
一方の義平次婆おとらの竹三郎は、悪婆系の魅力があり大変良かった。
序幕「柳橋草加屋の場」は、おとらが局になりすまして琴浦を連れ出そうとする。お梶によって見顕された後は「浜松屋」みたいになる。江戸の町名を散りばめた台詞は面白かったのだが、大阪ではあまり受けていなかった。
大詰めの泥場(「浜町河岸の場」)は、竹三郎の年齢を考慮してか、下手の砂場のようなところで顔に泥を塗りつけるだけ。その代わりお梶の猿之助が、本水のサービス。わざわざ着物に水をかけ、花道でしぶきを観客に振る舞っていた。
猿之助のお梶は、決めの形に錦絵から抜け出たような女形の美しさを出していて、そこは感心したが、一方で「どんなものだ」と言わんばかりのドヤ顔ならぬドヤ芝居(?)に見えてしまうところもあった。
琴浦役の片岡千壽が大奮闘。
磯之丞は隼人。この手の立役の声の出し方がまだ未熟。時々女形の発声となっていた。
おとらの相棒の甚内に薪車、男女蔵の釣船三婦、壱太郎の一寸お辰。
四谷怪談
幕が開き、上手で傘張り作業をしている仁左衛門伊右衛門が見えた途端、観客の大拍手と大向こう。誰もがこの伊右衛門を待っていたのだということがわかった。
仁左衛門伊右衛門は、白塗りの顔の美しさが際立つが、声は呂の声を効かせて力強い。最近の役者が演じる民谷伊右衛門は、かなり色悪を強調していると感じているのだが、仁左衛門は、決して単純な色悪ではない。といって、根本からの悪でもなく、一人の人間が悪へ落ちて行くその過程が垣間見える、深みのある伊右衛門像。今日は「浪宅」から「隠亡堀」までの短縮版であったにもかかわらず、そうした伊右衛門人間性を観客に気づかせる役作りをしているところが、仁左衛門のうまさだと思う。
また、先月の大蔵卿同様、台詞の丁寧さも相変らず素晴らしい。高家と塩谷家の対立が、仁左衛門の言葉一つで鮮明になっている。
「元の浪宅」の花道で宅悦を脅す場面も、刀を控えめに使うだけだが、凄みはしっかりある。「隠亡堀」での「首が飛んでも」の台詞は、声量はそれ程ではないものの、ビデオで観た八代目幸四郎のような迫力を感じた。
竹三郎のお岩は、もちろん自分は初めて見るが、会の主催者に相応しい出来栄え。武家の娘の貫録を持ち合わせ、なよなよしていない。薬を飲んだ後の苦痛や変貌の過程もストレートでわかりやすく、最近の役者にありがちな心理性の強いお岩とは対照的な、骨格の太い芝居となっている。観ていて疲れないのが何より良い。
宅悦の橘太郎も好演。本興業でも十分通用するだろう。
薪車の直助権兵衛は、台詞にうまみあり。小仏小平は壱太郎。
竹三郎二役の与茂七は、柄に合わないものの、だんまりの動きはさすが。仁左衛門、孝太郎のおたか、薪車の四人が揃って、大人のだんまりであった。
とにもかくにも、仁左衛門伊右衛門、竹三郎のお岩という二度と見られないであろう組み合わせ、しかも最近乱発気味の『四谷怪談』の中でも極めて高水準。(蚊帳を伊右衛門が奪い取る場面で変な笑いなど決して起こらない。)
昭和の歌舞伎は、きっとこんな風だったのだろうなという妙な感想も抱いた、至福の『四谷怪談』であった。

終演後、カーテンコール。出演者から花束を受け取り、竹三郎は既に泣いている。仁左衛門に挨拶をお願いし、最初は遠慮していた仁左衛門が語り出す。
「自分が今歌舞伎を続けているのも、竹三郎のおかげ。関西歌舞伎不振の時、竹三郎が頑張っていたので、自分も辞めることを思いとどまった。この人がいなかったら、今の自分はいない。」
竹三郎が孝太郎と猿之助を紹介。
「孝太郎とは母役で共演、猿之助とは祖母役で共演多し。今日は娘と孫が一緒。」
孝太郎「これからは、薪車さんが立派に後を継ぐと思う」
猿之助「今日は役者も客も竹三郎さんを好きな人ばかりが集まって、気持ち良い舞台だった。」
竹三郎が再び語り出す。
「養父菊次郎ともども、十三代目仁左衛門には大変お世話になった。ちょうどお盆の時期、今日は二人で観にきてくれているだろう。若い壱太郎、隼人がこれから歌舞伎を支える。自分もそれを見届けるべく、まだまだ頑張る。」
「もう喋れまへん」と言って、最後に仁左衛門が大阪三本締めで締めた。

役者と観客の一体感極まる公演に立ち会え、僥倖であった。

市川海老蔵ABKAI〜えびかい

kenboutei2013-08-04

海老蔵の第1回自主公演、シアターコクーン
『蛇柳』
歌舞伎十八番の復活モノ。二代目松緑も手掛けていない演目だけに(戦後直後に東劇で演じられた記録があるが)、多少の期待はあったけれども・・・。
松葉目ものならぬ、柳葉目もの(?)構成的には『土蜘』や『紅葉狩』と同じ。
海老蔵は、前シテの方が良い。スッと立ち、肩を落として楚々と歩く。柳っぽさがある。後シテで蛇柳の精になるが、途中で早変わり。押戻しで再登場。『蛇柳』でなくなってしまった。
愛之助の住僧定賢が安定。
『疾風如白狗怒濤之花咲翁物語。』
「はやてのごときしろいぬどとうのはなさきおきなものがたり」と読ませるが、要するに『はなさかじいさん』。これを宮本亜門が演出している。
水田開発等で豪雨、村が荒れ果て、動物が人間に襲い掛かるという出だしは、文明批判で面白そうと思ったが、結局はただの昔話のパロディで終わった。子供向け文楽に書き換えたらよいかも。
海老蔵は、「ここほれワンワン」の犬と、悪い方のじいさんを演じる。良い方のじいさんは愛之助。おばあさんは上村吉弥。書き残すのも空しくなる。
海老蔵の犬が、『四の切』の狐風。甲の声が相変わらず。

終演後は渋谷で寿司をご馳走になる。
                 

7月大阪松竹座

kenboutei2013-07-21

大阪松竹座へ。夜の部を観る。
曽我物語
我當親子、翫雀、薪車、上村吉弥
討ち入り前の、曽我兄弟の会合。
十郎に翫雀、五郎が進之介。我當は異父兄、薪車は末弟で出家している。4人兄弟だったのか。
とりとめもない話で、全体が埃鎮めのような一幕。進之介の五郎は、いまだ素人っぽい台詞でまるで国立劇場研究生の勉強芝居のよう。これでは先に進めないなあ。
五郎の着物が筋書の写真と違っていた。
『一條大蔵譚』
「檜垣」と「奥殿」。
仁左衛門の大蔵卿。東京で演じたことがなく、型も違うらしい。
阿呆の表現に嫌味なく、切り替えも早い。最後も切った首で遊ぶことはせず阿呆に戻らないで、右腕を胸の前で折って決まる。その恰好の良さ。少しあっさりし過ぎの感もあるが印象的な大蔵卿。
鬼次郎への台詞もわかりやすく、鎌倉への伝言の中身がはっきりと理解できる。そこが仁左衛門の良いところ。
秀太郎常盤御前が新鮮。
橋之助の鬼次郎、福助のお京。
杜若艶色紫
「かきつばたいろもえどぞめ」。平成15年2月に新橋で上演されているが、観てたかなあ。
福助橋之助翫雀扇雀の東西成駒屋兄弟の共演。
福助の悪婆は似合っているが、歌右衛門襲名を控えた女形としてはどうなのか。下品さだけが際立つ。
橋之助の願哲は、完全に中村屋の法界坊のコピー。平成中村座の悪影響か。
途中、橋吾、松十郎の名題披露。芝居の雰囲気と合わず、何だか気の毒に感じた。

終演後、新地へ繰り出す。

7月歌舞伎座 昼・夜

kenboutei2013-07-14

新しい歌舞伎座での「花形夏芝居」二題。
昼の部
『加賀見山再岩藤』
松緑奮闘。鳥井又助が立派。立ち姿が様になってきた。両手を広げる様など、形になるところも見栄えがする。台詞はまだ少し舌足らず感あるが。一方、岩藤の方は、面白くない。
染五郎菊之助愛之助とそれぞれ役をきっちりこなす。若手花形から一歩踏み出した感あり。(これは夜の部にも言える。)
 
夜の部
東海道四谷怪談
菊之助のお岩。もちろん初役。
もともとお岩は音羽屋の家の芸のはずなのに、六代目以降殆ど演じられてきていなかったので、菊之助が演じることにちょっと驚いたが、その挑戦心は立派。
お岩にしては、元気すぎるきらいがあるが、することはソツなし。福助勘三郎に比べても遜色ない。しかし、余韻が残らない、乾いた感じがするのは何故?
「夢の場」はたいしたことなかった。
染五郎伊右衛門はまずまず。松緑の直助とのバランスも良い。
市蔵の宅悦が良い。小山三も元気。
だんまりは破綻なく、若手だけではサマにならないと思っていたのだが、それなりに観られた。

6月歌舞伎座第三部再見 海老蔵復調の『助六』

kenboutei2013-06-23

今月二度目の第三部。
海老蔵助六が、初日に比べて大いに良くなっていたのに驚いた。
特に、あの耳障りであった甲の声の発声が改善され、初期の海老蔵の頃に戻っていたのが喜ばしい。
きっと誰かの指摘や指導があったのかもしれない。かなり意識的に高音部が抜けないようにしていた。(抜けそうになると息の使い方を工夫して、できるだけ地声のボリューム感ある低音域に戻そうとしているのが、聴いていてもはっきりわかった。)
あの悪癖の発声が改善されたことで、助六の魅力も倍加。「こりゃまた何てこったい」などのの台詞の誇張も抑制的で(やはり誰かの指導があったのだろう)、助六としての破綻感がより薄くなり、芝居の一貫性が強くなった。
また、初日は菊五郎吉右衛門らの大幹部に支えられての助六であったが、今日は、大御所に遜色なく対峙。それだけ助六のスケールが増したということ。
声の変化だけでもこれだけ立派になるのだから、これが今日だけの現象でないことを祈るばかり。(あのひどい『対面』はどうだったのだろうか?)
一方、福助の揚巻は、花道の酔いっぷりは少し改善されていたが、悪態の初音が、更に怒鳴り気味になっていた。これまでの揚巻役者はここまで台詞に感情を入れていないことを、誰か助言する人はいないのか。
『鈴ヶ森』の感想は、初日と変わらず。

6月歌舞伎座 一部・二部

kenboutei2013-06-15

圧倒的に、一部の方が面白かった。
第一部
『鞘當』橋之助の不破、勘九郎の山三、魁春の留女。客入り優先のためか両花道ではなく、花道と上手からの登場。(新しい歌舞伎座で、両花道を使うのはいつのことだろう?)
橋之助の不破、笠を被っている時の所作がそれほどでもなかった。勘九郎は、声だけ聞くと父親にますます似てきた。しかし、山三より不破の方がニンであろう。
魁春の留女は平凡。
破綻なく、歌舞伎らしい一幕。
『喜撰』三津五郎。本日最大のお目当て。出の花道の歩みから素晴らしい。七三ですっと止まる時の、自然さ、軽妙さ、品の良さ。瓢箪をつけた桜の枝の使い方にもキレがあって、観る者を楽しませる。本舞台に入ってからの、詞章に合わせた振りの面白さも忘れ難い。三津五郎のこの舞踊への気の入れようも伝わってきて、観ているこちらも自然に気が入る。それでいて軽妙洒脱な振りの前で、つい笑ってしまうから、さすがに名人の踊りである。
時蔵のお梶も、しっかり三津五郎に対峙。二人の面白さが会場全体に広まった。
息子の巳之助他若手総出の所化が、じっと三津五郎の踊りに目を凝らしているのも、印象に残った。(鷹之資がいたことには気がつかなかったなあ。)
眼福の一幕であった。
俊寛第一部もう一つの見もの、吉右衛門俊寛
「思い切っても凡夫心」からが感動的であった。吉右衛門は、去って行く船の綱を手放して、一瞬虚無の表情になる。そして「思い切っても」になって、再び追い掛ける。
この虚無の表情が、最期の幕切れの伏線となっていて、一度空虚になった心から再び未練が沸き起こり岩を上り、「おーい」。しかし、去って行く船を見つめるうちに、未練は消え去り、そして、次に起こった感情は、虚無ではなく、「悟り」だったのではないだろうか。そう思えたのは、一度岩に上る前に、既に空しい感情が生まれていたから。
これまでの吉右衛門俊寛の最期の表情は、もっと虚無感が強かったと思う。それが今回、悟りというか、希望というか、どこか明るい感じに見えた(と同時に、この俊寛は、この後きっぱりと死ぬのだろうとも思える。)のは、こうした心の変化が伝わってきたからだと思う。
この幕切れは、忘れ難い。
仁左衛門の丹左衛門が爽やかで口跡良く、扇をかざす形が格好良い。
左團次の瀬尾も出色の出来。これまで左團次も含めて強面で怒鳴り散らす瀬尾ばかり観てきたが、今日の左團次は、抑制的かつ深みのある芝居であった。第三部の意休も本役だが、それ以上の大当たり。
芝雀の千鳥は安定。歌六の康頼、梅玉の成経。
第二部
『壽曽我対面』海老蔵の五郎、菊之助の十郎、仁左衛門の工藤。この三人の配役だけでも興味を掻き立てるが、極めて平凡であった。
海老蔵の五郎が、初役時のあの凶暴性がすっかり影を潜め、随分と大人しくなっていたのに、まずがっかりした。甲の声のくぐもりも耳障りで、殆ど良いところがない。
これに対し菊之助の十郎は、声も良く、品のある十郎であったものの、全く抜き衣紋にしていないのは、祖父梅幸ゆずりなのかもしれないが、多少色気にかける。
仁左衛門の工藤を観るのは初めてだったので、これもかなり期待していたのだが、意外に良くなかった。
良かったのは、孝太郎の舞鶴くらいか。
新演出のようだったが、随分と違和感があった。
『土蜘』菊五郎の智籌、吉右衛門の頼光、三津五郎の保昌、魁春の胡蝶。
菊五郎の智籌は、淡々としすぎで物足りない。数珠を口に当てるところも、あっさりと終わる。しかし、時折垣間見せる眼光の鋭さが印象に残った。
吉右衛門の頼光、三津五郎の保昌が共に立派で、普段は眠くなる芝居なのだが、今日はずっと起きていられた。
芝雀の巫女、翫雀松緑勘九郎の番卒での間狂言が面白かった。(ここもいつもは睡眠時間にしていたのだが。)