コクーン歌舞伎『天日坊』

kenboutei2012-06-30

今年のコクーン歌舞伎は、『天日坊』。黙阿弥の原作を元に宮藤官九郎が脚本、演出は串田和美
勘三郎福助橋之助は参加せず、勘九郎七之助獅童ら若手花形中心。前進座風に言えば、コクーン第一世代から第二世代へ。コクーン歌舞伎も歴史化しつつあることを実感。
いわゆる天一坊事件を黙阿弥が歌舞伎にしたのが『天日坊』だが、実際に観たことはなく、このクドカン本が、天日坊物の初見である。
天一坊事件は徳川吉宗の時代だが、それを木曾義仲の遺児として、頼朝の鎌倉時代に置き換えていることは、筋書きで初めて知った。(事前に読んでいなければ戸惑っていただろう。)
ポスターやら筋書きでは、「俺は誰だ」という自分探しを強調しており、実際の芝居もそのテーマに沿った演出で、ある意味芯がはっきりしていてわかりやすかった。もっとも、その自分探しの主人公でもある法策(天日坊)役の勘九郎が、アイデンティティの葛藤の中で、「親が誰か、誰の子なのかなんて関係ない!」と言っていたのは、勘九郎自身が歌舞伎役者の御曹司であるだけに、ブラックユーモアにしか聴こえなかった。
観る前は多少不安であったクドカンの脚本は、筋やテーマを絞って分かりやすくしていたことに感心。前作『大江戸りびんぐでっど』とは異なるアプローチだったと思う。
「マジかよ」を多発する言葉遣いも一つの特徴だが、一時的な相手との会話には有効だが、芝居全体の台詞空間の中ではアドリブ的にしか受け止められない。この点でクドカンの脚本は、黙阿弥の原作を破壊している。ところが一方で串田の演出は、そのクドカンの台詞に黙阿弥の作法をうまく流用し、結果として観客に黙阿弥を意識させる効果を出していて、そこが今日の芝居の面白さであった。
例えば、大詰めの天日坊の正体を大江廣元が暴いていく場面で、串田は、二人の台詞を徹底的に被せて行く。これはある意味歌舞伎の演出では御法度のはずだが、一方でこの被せ方は、黙阿弥の渡り台詞、割り台詞の変調でもあり、台詞のリズム・間で陶酔させる歌舞伎の骨法と実は全く同じ構造である。それがコクーン歌舞伎串田和美が取得した歌舞伎の現代的演出なのだと思った。(もしかしたら、脚本のクドカンの指定でそうしている可能性もあるのだが、個人的には串田の演出であると確信している。)
ということでこの芝居もまた、黙阿弥、クドカンの本を活かした、串田和美の串田歌舞伎であったと思うのである。
ただ、その串田演出で一番引っ掛かったのは、法策が頼朝の隠し子の秘密を知って、お三婆を殺そうとする、その転換点が不鮮明であったこと。
それまで善人だった男が世話になっている老女を殺すには(いくら自分の出自にコンプレックスがあったにせよ)、もっと説得力のある過程や演出が必要だったと思う。黙阿弥で言えば、『十六夜清心』百本杭の場での清心の心変わりを、鐘の音と「しかし待てよ」の台詞、そして月明かりという演出で納得させるところ。それを、勘九郎の「マジかよ」という台詞とトランペットの響きだけで済ますのは、いかにも物足りなかった。
他の場面では、例えばドラム主体のだんまりや、七五調の台詞にベースの刻みが入る工夫などは、とても面白く感じた。特にだんまりとドラムの組み合わせは絶妙で、この場面はもう少し観たかった。
勘九郎七之助獅童のバランスはとても良い。この組み合わせでの三人吉三も面白いだろう。
地雷太郎の獅童は、こういう芝居ではイキイキしている。役者っぷりもサマになっていて、貫禄があった。
人丸お六の七之助も、同様。開放感に溢れた演技。立ち回りも良かった。
勘九郎は前述の変心のところは弱かったが、他の部分は好演。
コクーン初参加の萬次郎が違和感なく歌舞伎的芝居をしていたのも面白かった。亀蔵はいつも通り安定した怪演(?)。お三婆役で、極端に遅く歩く。
大江廣元の白井晃は、詮議の時に天日坊を見過ぎる気がした。
串田和美コクーン歌舞伎。いつもながらの箱庭的舞台空間とロックの調和が心地良い芝居。