コクーン歌舞伎『三人吉三』

kenboutei2007-06-10

午前10時から、来月の歌舞伎座の座席をネット予約しようとしたが、なかなか繋がらず、結局40分程かかり、その後、排水管の定期点検の終了を待って、午前11時過ぎに出発。
渋谷に着いたら、もの凄い土砂降りで、雷も鳴って驚いた。
さて、コクーン歌舞伎、今年は『三人吉三』の再演。
6年前の初演時以上に、黙阿弥作品を解体・再構築した上に洗練を重ね、非常に完成度の高い舞台となった。自分の観たコクーン歌舞伎の中でも、最も優れていると思う。
冒頭、全ての発端となる、土左衛門伝吉が名刀・庚申丸を盗むものの、野良犬に襲われ、その犬を斬り殺した弾みに、庚申丸を川へ落としてしまう場面を、前回よりももっとしっかり見せる。
その後の展開は、基本的には初演時と同じだったのだが、見終わった印象は随分違う。
どこが違うかというと、まず、役者は前回以上に謳わない。黙阿弥の作品といえば、陶酔するような、あの七五調の台詞だが、串田和美は、極力その台詞廻しを排そうとしていたように思える。
七五調を排除するということは、すなわち歌舞伎役者から歌舞伎の匂いを消すことでもあるのだが、その結果露になったのは、庚申丸や百両の行方だけでなく、親・伝吉から始まる因果の絡まりである。
これはプログラムの中で今岡謙太郎氏も指摘していることではあるが、明治以降の役者の演出で洗練されてしまったが故に、現在の歌舞伎ではすっかり隠されてしまった、初演当時の生々しく陰惨なドラマを、串田和美は改めて炙り出してみせたのである。
2001年バージョンでもその試みは成功していたのだが、今回は、さらにそれを徹底させた演出であった。(そう考えると、串田にとっては、前回から斬新と評判である、大川端の場の「月も朧に・・・」さえも、まだまだ違うやり方にしてみたかったのではなかろうか。)
さらに、そうした歌舞伎調の排除の象徴として、伝吉役の笹野高史の役割がある。
これまでも笹野高史は、コクーン歌舞伎の中では重要な役についていたが、まだ歌舞伎の匂いが多分に残る舞台の中では、どうしても違和感があったのは否めない。歌舞伎役者と一緒に芝居のできる、個性的な現代演劇人という、一種のスパイス的役割に甘んじていたと言っても過言ではない。しかし、今回は、むしろ笹野の現代的演技の方が主となり、ようやく、笹野高史を使い続けてきた演出者の意図が達成されたようにも感じたのである。
例えば、伝吉内の場で、十三郎が自ら捨てた双子の一人であることがわかり、この瞬間、双子のもう一人おとせと、近親相姦、犬畜生の関係になっていることを悟った時、笹野高史は、まったく表情を変えない。普通の歌舞伎であれば、ここで驚き、思い入れの一つも入れるところである。(現に前回の弥十郎は、「勘九郎箱」に収録されているDVDで確認すると、観客にもわかるように驚いている。)
しかし、まったく驚かない笹野高史は、そのことで、自らの内面に生じた衝撃を表している。
これは歌舞伎の演技ではない。まさしく現代劇の演技である。
そして、この演技が全く違和感なく観客に受け入れられたということが、今回のコクーン歌舞伎の最大の成果であったと思う。
お坊・お嬢・和尚の三人吉三は脇筋となり、全ての因果の発端となった、土左衛門伝吉の存在がよりクローズアップされ、それを演じた笹野高史が主役であったと言っても過言ではない。(プログラムに書いている串田和美の文も、伝吉に焦点を当てている。)
そこまで串田和美の演出は徹底されており、その結果、コクーン歌舞伎の象徴である勘三郎の存在自身も、あまり重要ではなくなっていた。
歌舞伎とは何か、そして歌舞伎役者とは何かをここまで考えさせる芝居は、過去のコクーン歌舞伎でもなかったように思う。また、もはやコクーン歌舞伎は、歌舞伎から離れて、串田和美の作り上げる現代劇になったとも言えるような気もする。(穿った見方をすれば、串田和美にとっての歌舞伎は、黙阿弥の書いた『三人吉三』のような面白い素材がありさえすれば良く、勘三郎のような歌舞伎役者すら、もういらないと思っているのではないか。)
とはいえ、歌舞伎芝居しか観ない自分にとっては、ここでの勘三郎の演技も極めて魅力的であったことも、正直に告白しなければならない。
大川端でお坊、お嬢の喧嘩を止めに入り、義兄弟の血の盃を交わすまでの小気味良さは、「泥臭く苦み走ったリアルさが持ち味」(プログラムより)だったという、初演時の小團次も、こんな感じではなかったのかと想像させるようなものであった。
また、吉祥院の場での、おとせ十三郎の首を抱えて決まる顔(ちょうど、ポスターで描かれている表情である)は、やっぱり歌舞伎役者でなければ味わえない。
歌舞伎から離れようとすることで得られる現代劇の感覚と、それと相反する歌舞伎演出の陶酔感に、自己矛盾を感じながらも幻惑される数時間であった。
おまけに、最後の方で流れるエレキの重低音が実に良いのである。「コクーン歌舞伎はロックだなあ」と思える瞬間でもあった。(ロックが似合うということではなく、コクーン歌舞伎そのものが、ロックな存在であるということ。)
今から思うと、『桜姫』、『東海道四谷怪談(北番)』、そして今回の『三人吉三』は、歌舞伎という素材を自在に料理しだした串田和美演出の一つの同じ流れの中にある。
次は、どんな歌舞伎を料理してくれるのか、それが楽しみになってきた。(もう、別の役者で試みても十分面白い筈だ)
 
幕開きでは、本物の犬が、上手から下手へ、トコトコと横切る。観客はそれだけで驚き、拍手喝采であった。ただ、串田和美がプログラムで語っていたような、本物の野良犬を出したい、という意図からの演出としては、出てきた犬が忠犬すぎた。
福助が大川端で、「こいつは春から縁起がいいわえ」の「縁起」を、わざわざ「インギ」と発音していたが、これが串田演出の結果だとしたら、少し興醒め。
勘太郎の十三郎と七之助のおとせが、奮闘。6年前から比べると、本当に成長した。二人の見つめ合う場面が、殆どキス寸前までいっていて、ドキドキさせられた。ここで実際にキスまでしてくれたら、コクーン歌舞伎は、また一つ大きな枠を超えていたのだが・・・。(次は是非やってほしいものだ。)
勘三郎の二役、冒頭の金貸しが、「金を貰ったら申告しよう!」と自虐ギャグ。悪ノリの感は否めないが、この逆ギレぶりが、いかにも勘三郎らしい。
芝喜松が、いい味を出していた。小山三も元気で何より。
最後の椎名林檎の歌も良かったが、ちょっと聞き取りにくかったのと、もう少し長く聴いていたかった。