六月コクーン歌舞伎『盟三五大切』

kenboutei2011-06-19

今年のコクーンは、勘三郎福助抜き、菊之助初参加で『盟三五大切』。
自分が最初に観たコクーン歌舞伎がこの『盟三五大切』で、当時の勘九郎が源五兵衛、橋之助が三五郎の時の回だった。もう13年前のことなのか。
再演とはいえ、そこは串田演出のコクーン歌舞伎、前回とは全く違った作品に仕上がっている。
串田歌舞伎の特徴は二つあって、一つは、原作を深く読み込んで、歌舞伎が古典化されていく中で捨てられたり忘れられてしまったものにもスポットを当て、様式だけを楽しんでいた芝居に新たな発見をもたらしてくれたこと。そしてもう一つは、原作を読み込んだ上でそれを超越し、串田和美自身の解釈による、独特の串田ワールドを作ってくれること。『夏祭』や『三人吉三』は前者、『四谷怪談・北番』や『桜姫』、去年の『佐倉義民傳』は後者の色合いが強いが、濃淡はあれ、どの作品もこの二つの特徴が織り込まれていると思う。
今回の『盟三五大切』は、前者の色合いが強かった13年前の初演時から、串田和美のオリジナリティがより強くなり、両者のバランスがちょうど良い、串田歌舞伎のスタンダードといった感じの出来栄えであった。
会場に入ると、舞台正面の幕には、印象派タッチの川端が描かれている。幕は光の具合で透けて見え、その効果で川の流れも表現している。そして芝居は、幻想的なチェロによるアダージョから始まる。
まるで歌舞伎の序幕とは思えないのだが、それが決して違和感なく受け入れられるのが、コクーン歌舞伎である。
話の筋はいつもの通りだが、串田和美の視点ははっきりしていて、それは、橋之助演じる源五兵衛の疎外感である。(それは、パンフレットの串田本人の言葉でもわかる。)
役者本位の歌舞伎の場合、源五兵衛と三五郎・小万の三者は、割合フラットにスポットが当たっているのだが、三五郎・小万カップルに騙される源五兵衛という構図の中で、今回は源五兵衛の心理にまで比重を置いた、源五兵衛の物語になっていると言っても過言ではない。
今日の源五兵衛は、「自分にはどこにも居場所がない」といった雰囲気が最初からあり、討入に加わりたいという(芝居の筋の上で本来持っているはずの)強い動機を感じにくいだけでなく、小万に裏切られて殺人に走る動機も、それほど強くないように感じた。しかし、それは串田和美の解釈の破綻では決してなく、このもともとあった疎外感、「居場所のなさ」ゆえに、源五兵衛は無差別殺人に走ったのだということが、舞台を観ていて割合すんなり理解できる。どこか数年前のアキバの無差別殺人の若者に共通するようにも思えた。
その分、三五郎役の勘太郎、小万役の菊之助の魅力を楽しむには物足りなさもないではなかったが、一つの芝居としては、それは問題とならないものであった。
凄惨な殺しの後の真相判明→大団円で終わるかと思ったら、最後に舞台は最初の殺しの場である虎蔵の家の裏で、源五兵衛が佇んでいる場面に戻り、そこからは、これまでの話が全て夢か幻のように思わせる演出となり、更に「仮名手本忠臣蔵」の由良之助の台詞が被さる。一昨年の『桜姫』を思い出させるイマジネイティブな夢幻感、串田ワールドにたっぷりと浸る中で、終幕となる。(こういう展開になるのも、パンフの串田の話でわかるのだが、少し種明かしが過ぎるような気もした。)
橋之助の源五兵衛は、前回のコクーンで自分が観たのは勘九郎の方だったので、これが初見。全体的に串田和美の意図する源五兵衛像をよく体現していたと思うが、橋之助自身の魅力には、乏しいように感じた。
勘太郎の三五郎は、序幕の小万とのやりとりが良かった。小気味良さと小悪党としての色気があり、今後も持ち役として期待できる。
コクーン初参加の菊之助は、かなり期待していたのだが、それほどでもなかった。というより、いつもの菊之助のイメージと同じで、自分が期待していたのは串田演出による化学反応だったのだが、そういう変化はなく、菊之助菊之助だったということ。(それが悪いということではない。)
笹野高史は、ますます坊主と徳右衛門の二役だが、ますます坊主の軽妙さが強過ぎて、三五郎の父親役として重要な役割を持つ徳右衛門もそのイメージに引きずられ、ふざけた役のように見えてリアリティを失い、そこがマイナスだった。
国生の八右衛門は、まだ大人の芝居の水準に達しておらず、極めて重要な役であるだけに、歌舞伎座新橋演舞場でのファミリー歌舞伎ならともかく、これをコクーンで許容するのは疑問。
彌十郎富森助右衛門と家主の二役は、ともに良い。芸者菊野役の新吾も奮闘。虎蔵役の蝶紫も面白かった。
ラストの由良之助の声は、病気療養中の勘三郎
役者自身の魅力ではなく、役そのものの魅力で観客を惹き付ける、それもまた、串田歌舞伎の特徴の一つであろう。