七月新橋演舞場 昼夜 海老蔵初日

kenboutei2011-07-02

七月の新橋演舞場は、顔を殴られ謹慎していた(と書くと妙だが)、海老蔵の復帰公演。いつものように物見高きマスコミが入り口前にたむろしており、わざわざ観客にもインタビューしている。喧噪を避けつつ、早めに場内へ入る。
昼の部
『鳥居前』右近の狐忠信、笑也の静御前、門之助の義経、猿弥の弁慶。
猿之助の奮闘公演ではなく、他の一座に加わっての所謂大歌舞伎興行の中で、澤瀉屋の若手だけで古典の一幕をきっちり務められるようになったのは、立派。しかも、このまま『千本桜』の通しを観たくなる気持ちにさせるくらい、良い『鳥居前』であった。
右近は、身体全体が大きく見え、形も良い。ただ、声の大きさや艶はあるものの、息が続かず、最後は声がかすれて震えてしまうのが難。
門之助の義経は本役。立ち居振る舞いに気品が漂う。猿弥の弁慶も達者。
寿猿の早見藤太が、芝居っ気たっぷりで楽しい。この一幕で一番。
静御前の笑也だけが、あまり成長が見られず、残念。昔感じた清楚な美しさも、すっかり影を潜めた。
勧進帳團十郎の弁慶、海老蔵の富樫、梅玉義経
舞台に最初に出る役者が富樫役の海老蔵なので、いきなり拍手と歓声で盛り上がる。一人の役者をしばらく観ないということは、海老蔵に限らずよくあることで、自分は今回の復帰についてもそれ程待っていたという感じはしないのだが(そもそもあの騒動自体が馬鹿馬鹿しくて付き合いきれない)、それでも、久しぶりに海老蔵の姿を観ると、何だか嬉しくなった。
謹慎前の海老蔵は、頬も痩せこけ、触れれば切れるという程の精悍さで怖い印象すら持ったものだが、今日目にしている舞台では、頬もややふっくらしていて、程よい感じの肉付きとなっていた。役者はアスリートではないのだから、ストイックに減量したり、筋トレばかりしていては、色気も何もあったものではない。良い意味で、海老蔵は、襲名前後の容姿に戻っていて、それが自分が嬉しく感じた理由の一つだったのかもしれない。
富樫としての第一声はしっかりしたもの。変に甲高く上ずりもせず、また低過ぎもせず、堂々と落ち着いていた。その後も、今日の海老蔵は、久しぶりの舞台とは思えない程、余裕を持った所作であった。頬に肉付きが戻ったのと同時に、その表情には穏やかさもあった。
この穏やかさは、実は今日の『勧進帳』全体に流れていた雰囲気である。観客は、海老蔵に対する歓声で騒々しかったが(「かぶき者!」という声まで掛かっていた)、舞台上は、非常に静かな空気が流れていたような気がした。
團十郎の弁慶もまた、変な力みがなく、むしろ台詞がやや能掛かってもいて、力を七、八割程度にセーブしているように感じた。これもまた、穏やかな雰囲気を醸成していたようだ。
山伏問答は、丁々発止というより、お互いが相手の台詞を噛み締めながらやり取りしていて、緊張感はないけれど、厳粛感はあり、それが騒々しい中での静けさのような印象を持たせたのだと思う。
もっとも、團十郎の弁慶、前半はまずまずだったが、後半は力をセーブしていても完全に息切れ、延年の舞は、何を踊っているのかわからなかった。もう、團十郎の弁慶をきちんと観ることはないのかもしれないとすら思ったのは、自分だけだろうか。
また、顔もむくみが顕著で、ちょっと異様な感じもしたのであったが、ただ、それによって浮かび上がってきた顔の輪郭の凸凹加減が、鳥居清倍の初代團十郎の絵のようになっていたのが、不思議なイメージとして、強く印象に残った。
勧進帳読み上げ後は、いつもは帰りかけるのだが、今日はそのままじっとしていた。
梅玉の富樫は本役。安心して観ていられた。(逆に、海老蔵團十郎も、ハラハラしながら観ていたということでもある。)
劇場全体の盛り上がりはあったけれど、舞台成果は乏しい。ただ、海老蔵に最近顕著であった変な台詞のクセなどが、だいぶなくなってすっきりしてきていたのが、今後への期待につながるものだった。
楊貴妃この芝居を観るのは、国立劇場での福助楊貴妃、当時八十助の高力士以来。今回は、楊貴妃は同じ福助、高力士が海老蔵
福助楊貴妃メイクに絶句。長いつけ睫毛に、アイシャドー。今時のギャル。パンダみたい。うちの会社の派遣社員もこんなメイクだ。楊貴妃の姉たちである、笑三郎春猿芝のぶの国立研修生トリオのメイクはそれほどでもなかったが、しかし、どこかコスチューム・プレイもどきの雰囲気に満ち満ちている。
海老蔵の高力士は、何と言っても美しい。今日は花道近くの座席だったので間近で観ることができたが、男の自分でも、彼の美しさには見とれてしまう。(まあ、これも一種のコスプレか。)
しかし、芝居としては平凡な役作りに終わってしまった。楊貴妃に対するスタンスが、今一つはっきりせず、前に八十助で観た時のような、女性に対する冷淡さや屈折した内面などは、全く感じることはできなかった。楊貴妃の首を締めている時の、一種の恍惚感さえ浮かび上がっていた八十助の表情は今でも覚えているが、今日の海老蔵は、そういう複雑な心理表現からは程遠く、ただ美しいのみ。(最後は首を締めて殺すのではなく、脇腹辺りを剣で突き刺して殺していたが、前もそうだったかな。)
梅玉玄宗皇帝が立派で上出来。
後ろでよく喋るおばさんがいて、振り向いたら、波野久里子だった。(歌江の登場に一生懸命拍手を奨励していた。)
昼の部は、小泉元総理も観劇。さすがに目立つ。
周囲の喧噪は、何だか海老蔵襲名時と錯覚しそうであったが、決してそういう意味合いの興行ではないし、実際それほどのものでもなかったことだけは、書き留めておこう。

夜の部
『吉例寿曽我』観る前に二重の勘違い。てっきり『対面』だと思っていたことと、その『対面』での五郎を、松也が務めると思ったこと。
実際は、『対面』ではなく、『曽我の石段』であり、五郎は松也でなく松江であった。
直前には気がついたのだが、何だか観る気力が失せ、ほとんど寝ていた。
外題だけで『対面』と勘違いしていたのは、前回観た時もそうだったようだ。まるで成長していないぞ。
『鏡獅子』海老蔵の『鏡獅子』。これも襲名時を思い出させる演目だ。
前半の弥生は、丁寧に踊っている感じではあったが、あまり面白くなかった。獅子に操られて花道へ引っ込んで行く時の手獅子の動きが、かなりうるさかった。
後半の獅子は、さすがに隈取りも映えて立派。相変わらず目を剥き過ぎるが、これぞ「ザ・カブキ」と言った感じで、観光客は満足するだろう。しかし、毛振りは全く良くない。最初から省エネでただ回しているだけ。身体も半身で形が悪く、毛の回転の軌道も美しくない。ひたすら回数とスピードで観客の拍手を取ろうというやり方で失望。これなら先月の千之助の方がまだ観ていて清々しい。
『江戸の夕映』かつて、海老蔵・松緑・菊之助で観た時の印象が強いのだが、松緑菊之助コンビを團十郎福助に替えての今回も、若手の清新な舞台とはまた違った味わいがあって良かった。特に、福助のおりきが、楊貴妃のパンダ・メイクとそれに呼応した芝居っぷりと異なり、粋な幕末の女性となっており、これが本来の福助で、安心して観ていられた。壱太郎のお登勢と二人で花道を小走りする場面が、何とも素敵であった。壱太郎は、一人だけ芝居のトーンが異なるが、清楚な美しさと可愛さがあって、好感が持てた。
船宿の娘の宗之助も良い。(前に観た時は、まだ子役だった右近。)萬次郎の寺の妾役がうまい。筋書のインタビューによると、初演時は多賀之丞だったそうで、ビデオでもいいから是非観てみたい。
最後に許嫁であったお登勢と再会し、じっと見つめる海老蔵の小六。夕映の光が顔に当たり、その目が輝いて行く中で幕となる。その最後の海老蔵の表情、目の光が、今も脳裏に残る。
それを横で見ている大吉の涙は、息子の無事の復帰に安堵する、親・團十郎の涙でもあったのだろう。