三月国立劇場 仁左衛門の『絵本合法衢』

kenboutei2011-03-13

南北の『絵本合法衢』については、東宝歌舞伎で復活した経緯が、千谷道雄の『幸四郎三国志』や、最近の『演劇界』の記事で紹介されていて興味を持ち、自分も坪内逍遥渥美清太郎共編の「歌舞伎脚本傑作集」を入手、「予習」して臨んだ。
原作は、登場人物が多数登場し、名前も似ていて覚えずらく、誰が誰なのかよくわからなくなるのだが、左枝大学之助と立場の太平次の悪の魅力は横溢していて、とても面白い。特に、子供であろうと容赦なく殺してしまう大学之助の、自己中心的行動は、現代の目から見てもアナーキーで、興味あるキャラクターであった。実は歌舞伎脚本を、それも江戸時代のものをきちんと読むのはこれが初めてであったが、決して飽きることはなかった。
この面白い原作を、どう料理しているのだろうと、期待は高まり、その一方で、これまでの経験から、あまり期待すると後で失望することも多々あったので、おそるおそる席についた。
結果は、見事な傑作。国立劇場の仕事としても、近年にない成果であったと思う。(最近は個人的にかなり不満が溜まっていたのだが、これが本来の国立の仕事だろう。もっとも、今回の補綴脚本は、過去の新橋演舞場での奈河彰輔脚本に頼るところ大のようなので、全面的な国立劇場の仕事とまでは言えないが。)
複雑で雑多な筋立てを、登場人物の省略や場の整理によりすっきりさせ、大学之助と立場の太平次の悪の魅力に最大限スポットを当てている。
一つの場の終わりで去って行く役者を花道に残しつつ、会話をさせている間に舞台の盆を回して次の場に切り替え、再び花道から役者を戻すという工夫も、なかなかうまいものだと感心した。
そして、二役の悪の魅力を余すところなく発揮している仁左衛門が、とにかく素晴らしい。南北の脚本だけ読んでも、この二人のキャラクターは面白いのだが、仁左衛門はそのイメージをも凌駕する、圧倒的なスケールと存在感がある。芝居というものは、机上で考える(戯曲を含む)文学とは異なり、生身の人間が作り出す芸術であると同時に、それを実際に体現させる歌舞伎役者の魅力も、仁左衛門に教えられたように感じた。
仁左衛門の二役はどちらも素敵だが(普通二役だと、一方が悪役だともう一方は善玉の方が多いのだが、両方とも悪役というのも面白い趣向。)、特に大学之助の方が、より優れていた。悪の大きさ、暴虐性が、画一的な国崩しの悪とは異なる人間性を伴って表れているからであろう。南北の描く大学之助は、短気で狡猾、分家であるコンプレックスと裏腹の野心を持った複雑そうなキャラクターなのだが、仁左衛門はそうした性格を全て理解した上で、割合と明快に大学之助を演じているのが、よくわかった。そして、それが、南北が描いたキャラクター以上に、魅力的となっていた。凄いことだと思う。
一方で太平次の方も、妙覚寺裏手の場で、うんざりお松を絞め殺し、井戸に放り投げる時の凄み、倉狩峠一つ家の場で、どさくさに紛れて与兵衛の足を鉈で切るところなど、小悪党の面白さがあった。
更に付け加えるなら、仁左衛門の顔の素晴らしさである。これは大学之助、太平次両方に言えることだが、仁左衛門は横顔になった時、口をぐっと引き締め、顎を突き出すような顔つきになる。意図的なのかどうかはわからないが、その横顔は、まさしくこの二役を初演した、五代目幸四郎の顔にそっくりなのだ。(特に、三代豊国が描く、五代目が少し年老いてからの役者絵に似ている。)
(↓例えば、こんな感じ)

南北の戯曲を読み、五代目幸四郎の錦絵で江戸に思いを馳せるだけでも楽しいのに、それを現代に現前させている仁左衛門。この奇跡のような瞬間に立ち会えている幸せを感じないではいられなかった。
仁左衛門以外の役者も充実。時蔵のうんざりお松と皐月の二役、段四郎の高橋瀬左衛門、左團次弥十郎。(筋書に載せてあった過去の舞台写真で、昭和55年上演時の、宗十郎のうんざりお松があった。ビデオでもいいから機会があれば観てみたい。)
最後は、悪は殺され、「これぎり」で終わるが、お約束の勧善懲悪をあざ笑うかのような、それまでの徹底した悪の活躍に、何故か爽快感すら覚えて、国立劇場を後にしたのであった。(この感じは、往年のプロレスで、悪役レスラーに興奮していたのに似ているかなあ。)
是非近いうちに歌舞伎座、いや、新橋演舞場でも再演してほしいと、強く思った。