十二月国立劇場・忠臣蔵の疑似通し

kenboutei2010-12-05

12月の国立は、幸四郎一座の『仮名手本忠臣蔵』。大序なし、五、六段目もない。三・四段目とお軽勘平の道行、七・十一段目という変則的な半通し。
最初の三段目、幸四郎は師直役だが、なんと花道から登場してきたので、驚いた。七三で立ったその顔は、ポスターで撮影されたものとは異なり、大袈裟な付け眉毛。顔全体のメイクも、歌舞伎ではなくミュージカル風。何だか違う芝居が始まりそうな予感。
若狭之助は登場せず、上手で葛桶に座している幸四郎の師直に、下手から大名が次々と出て来ては、貢ぎ物の話をして追従し、去って行く。『姿見の師直』を意識した演出のようだが、実にくだらない。テレビ時代劇でよくある、「越後屋、おぬしも悪よのう」的な、安直なわかりやすさ。原作の色々なところをカットしつつ、話を通そうとすると、こんな馬鹿な演出になるのかと呆れた。
短絡的な演出はこの後も続き、七段目に入る前には、すっぽんから講談師が登場し(日生の『細川の血達磨』でも出て来た人のようだ。)、五段目、六段目の筋を紹介する。筋の紹介以上にこの講談師が必要だったのは、直前の「落人」で勘平を勤めた染五郎が、今度は平右衛門で登場するので、客が混乱しないようにするためでもあったようだ。やれやれ。
七段目は、吊灯籠から。九太夫と伴内が、由良之助の忘れた錆刀を確かめて去った後、幸四郎の由良之助が登場するのだが、「九太はもう、去なれたか」で、その刀を手に取りもしなければ、見もしない。ただ台詞を言うだけ。これでは由良之助は九太夫が自分を疑っていることを察したことがわからないし、そもそも何のために九太夫と伴内が出てきて錆刀の件をやったのかもわからない。これではもう、「七段目」ではない。
福助のお軽と染五郎の平右衛門のやりとりは、やっていることは従来の手順通りのようだが、妙にテンポアップして、余韻というものがない。兄妹のたっぷりとした会話が楽しいはずなのに、サラサラと進んで終わってしまう。
蛸を食べさせられる場面もないのに、九太夫にその恨みを言って打擲する由良之助。初めて観る客は、意味がわかるのだろうか。
そして、こうして他の段を犠牲にしたりスピードアップしてまで、たっぷり見せる十一段目。討ち入りだけでなく、「引揚」まで付ける大サービス。しかし、「討入」が終わると、客がぞろぞろ帰りだし、係員が制していたので、その効果があったかは、疑問である。
結局幸四郎は、師直で花道から登場し、由良之助で花道から去っていく。そういう風にしたかったのだろう。
染五郎は判官、勘平、平右衛門と三役で、初役もあったはずだが、こんなダイジェスト的通しでは、どの役も中途半端に思えて印象に残らない。
福助のお軽は、道行も七段目も嫌味がなくてまずまず。(逆に福助の場合は、ダイジェストで良かったのかもしれない。)
左團次の石堂、彦三郎の薬師寺。「判官切腹」では、どっちも薬師寺に見える。
太夫は錦吾、伴内に亀鶴。
・・・確か、国立劇場の目的の一つには、「通し狂言の上演」があったと思うが、それはこんな紛い物の通しではないはずである。かつては歌右衛門仁左衛門勘三郎梅幸らの大一座で3ヶ月連続で忠臣蔵の通しを行った、同じ劇場の企画とはとても思えない。(まあ、今月の忠臣蔵は、「通し狂言」とは銘打ってはいないけれど。)
今の国立で(いや、松竹でも)『仮名手本忠臣蔵』を一日で通すことが困難なのは充分承知しているが、それにしても、「忠臣蔵といったら討ち入りだろう」といった、安易な大衆迎合的なノリで企画しているようにしか思えない狂言立てを国立劇場が選択してしまうことに、自分は失望した。(今月の筋書の、どこかの教授の新演出擁護の寄稿も、太鼓持ち的内容で、ひどいものだった。)
設立当初から時代も変わり、特に独立行政法人化以降の国立劇場は、その理念も大きく後退し、より採算性を意識した企画、演目立てになっていることは否めないだろう。(最近の菊五郎劇団による復活狂言然り。)今月の芝居の宣伝には、「銀座」や「YouTube」などを利用したりもしているようだ。(宣伝の場の選択センスは、やはりお役所的だけれど。)
しかし、国立劇場の存在意義、役割を考えた時、ただ楽しい芝居で客を喜ばせれば良いとは思えない。(それなら松竹に任せておけば良い。)
国が経営(支援・保護)する演劇とは何であるか、どうあるべきかについては、過去にもさんざん議論されてきたことではあろうが、もし仮に、凡庸な政治家からの事業仕分けを怖れ、目前の採算性や卑近な話題提供ばかりに気を奪われ、その結果、作品(特に古典)の本質を捩じ曲げてまで上演するようなことが今後も許容されて行くのなら、むしろそんな劇場は、国から仕分けされなくても、自分の中では存在意義のないものでしかない。
今月の芝居を好意的に解釈すると、人々の歌舞伎離れを憂いての企画だったということかもしれないが、もしそうであるなら、国立劇場(と幸四郎)は、客が「引揚」の前で帰ってしまうことよりも、「七段目」で、お軽が梯子から降りてくる時、由良之助が「船玉様が見える」と言っても場内が全く無反応であったことの方を、もっと深刻に受け止めるべきだと思う。
とにかく、初めて観る客が、「これが『仮名手本忠臣蔵』か」と思い込んでしまわないことを、切に願う。
・・・それとも今月の企画は、国立のもう一つの目的であった、「新作歌舞伎の上演」の一環だったのだろうか?(まさかね。)