四月歌舞伎座杮葺落し公演・初日

kenboutei2013-04-02

長かったのか、短かったのか、とにもかくにも初日を迎えた。あいにくの雨、地下鉄直結のエスカレーターは大混雑。祝祭空間に入る儀式として必ず正面玄関から入場させるというコンセプトは、その動線の悪さも加わり、初日からケチがついた感じであった。
第一部
『鶴寿千歳』
名題は『壽祝歌舞伎華彩』。幕が開き始めると、「待ってました!」の掛け声。「木挽町!」という声もかかった。(「五代目!」という声もあるかなと思ったが、それはなかった。)
下手に囃子連中。上手から最初に登場した役者は、染五郎。続いて魁春。正面に座して礼をすると、観客から万来の拍手。『寿式三番叟』などの場合、本来神に向かっての礼なのだが、今日の舞台では、役者も明らかに観客に向かって礼をしている。元々は昭和天皇即位の時に作られたということだから、やはり観客への礼ではないと思うのだが、まあ、新しい歌舞伎座を皆で祝ってます、と善意に解釈することにしよう。
などと思っているうちに、松が描かれた背景が引き上げられ、富士山の背景に変わり、上手奥に箏曲の雛壇。更に壱太郎など若手役者がゾロゾロ登場。中堅として高麗蔵、権十郎が踊りをリード。
そして最後に、舞台中央、坂田藤十郎が何やらキラキラした冠をつけて、セリ上がってきた。
みんなで舞台をウロウロと(?)動き回った後、藤十郎が一人花道に残り、悠然と引っ込んで行った。
当初は藤十郎團十郎で踊る予定だったが、團十郎死去後、藤十郎の提案で、若手も沢山出すことにしたらしい。
松竹としては、先月末の開場式で既に『寿式三番叟』を披露しており、杮葺落興行では儀式性ではなく、派手に賑やかに祝そうということなのだろう。
それはそれで一つの考えだが、舞台成果としては、何も語るべきものはなく、「ただただ、御目出度う存じます」という感じ。
『お祭り』
「十八世中村勘三郎に捧ぐ」と銘打っての『お祭り』。三津五郎中心に、勘三郎ファミリーが登場。しかし、これも前の幕同様、登場人物が多過ぎ、舞踊としては散漫な印象に終始。せっかくの三津五郎の踊りも、全体の中で目立たなくなってしまった。
勘九郎が息子の七緒八と一緒に花道から登場し、中村屋の前向きな姿勢を感じられたのは良かった。七緒八は、舞台に入ってからも堂々としていて全く物怖じしなていなかったのは、立派。(かつて富十郎の娘は泣いて舞台を右往左往していたのを思い出した。)
巳之助が父親と一緒に踊る場面があったが、彼は今後坂東流も受け継ぐのだろうか。(頑張ってほしいものだ。)
後方で小山三が静かに座っていたのが、泣かせる。
『熊谷陣屋』
浮かれ気分だけで内容の乏しい舞踊二題が終わり、ようやく新しい歌舞伎座での歌舞伎芝居。実質的には杮葺落しの初芝居はこの『熊谷陣屋』からだろう。
吉右衛門の熊谷、玉三郎の相模、仁左衛門義経菊之助の藤の方、歌六の弥陀六、又五郎の軍次。
吉右衛門の熊谷は、割合と淡白な印象。しかし、決まりの型は実に丁寧で立派で大きい。圧巻は最後の引っ込み。子を失い無常を思う一方で感情の発露は抑え難く、花道をよろけながら引っ込んで行く。その強い哀感が、胸を打った。
玉三郎の相模は、平成元年以来ということだから、自分も初めて観る。台詞が義太夫っぽくなく、いわば玉三郎流。それが、吉右衛門の台詞と合わなかった。小次郎の首を抱えるところなども、初日ゆえかぎこちなかった。その前の立ち上がって着物を脱ぎ落とすところも、あまりうまくなかった。
菊之助の藤の方は、あまり目立たないが、台詞も力強く、なかなか良かった。
面白く感じたのは、相模と藤の方が二人だけ残り、青葉の笛を吹いて敦盛の影が障子に映る場面。ここはいつもウトウトくるところなのだが、玉三郎菊之助のやりとりが充実していて、初めてこの場を興味深く観ることができた。
仁左衛門義経も初見。若々しさと風格に溢れた良い義経であった。弥陀六に対する「じいよ」はやらなかった。
測って観ているわけではないが、全体的にテンポが早い気がした。
第二部
前の歌舞伎座での定番だった、1階二等席で観る。柱がなくなったのが嬉しいが、ちょっと寂しい気もした。一等席の傾斜がきつくなった分、一等席最後方の客の頭が以前より視界に入ってしまうのが気になった。二階席のせり出しも前より大きく、一等席後方部のかなりの位置まで被さっているので、二等席で感じる圧迫感は、前より増したかも。第一部では一番東側の二等席ブロックがまるごとマスコミが占有していたが、第二部は一般客に開放していた。役者の奥さんの顔もちらほら。
『弁天娘女男白浪』
菊五郎の弁天、左團次の南郷、吉右衛門の駄右衛門、三津五郎の忠信、時蔵の赤星、幸四郎の鳶頭。浜松屋と勢揃いの後に、極楽寺の屋根と山門、滑川土橋がでる。
菊五郎の弁天小僧、花道の歩みが、随分小さく見えた。背中が丸くなり、菊五郎にして、老化という時の流れには逆らえないことを痛感。舞台に入ってからのお馴染みの仕種、台詞はさすがだが、「極楽寺屋根」では、屋根瓦に拵えている足場に足を掛ける時によろけた。(近くの観客席から「あっ」と女性の驚く声がして、見ると寺島しのぶだった。)
菊五郎の弁天小僧ももしかしたらこれが見納めかもしれない、そんなことまでふと思ってしまった。
勢揃いも役者が揃って良かったが、より堪能できたのは、「極楽寺山門」の吉右衛門。このまま「五三桐」に移行してもらっても良かったと思うくらい、その大きさ、立派さが際立っていた。青砥左衛門の梅玉も、この大舞台によく似合う。
彦三郎の浜松屋幸兵衛、菊之助の宗之助。
『将門』
玉三郎の滝夜叉姫、松緑の光圀。
定番演目が並ぶ杮葺落興行の中で、この演目と配役は新鮮に映った。玉三郎の滝夜叉姫は、すっぽんから出た時の妖しさが濃厚で雰囲気がある。一部の『熊谷』とは異なり、台詞の粘り気が、この幕には合っていた。対する松緑の光圀は、玉三郎の妖しさに、踊りのキレで対抗していた。この二人のコンビはルテアトル銀座の『御殿』以来だが、今後も面白い組み合わせではないかと思った。
屋台崩しや妖術の蝦蟇など、新しい歌舞伎座の舞台機構で何かド派手になるのかと思ったが、そこは普通であった。

第三部
一部の時から、二階両脇の照明スペースに御曹司らしき人影があったが、三部では、背広姿の七之助が最後まで舞台を見つめていた。
『盛綱陣屋』
仁左衛門の盛綱、時蔵の篝火、芝雀の早瀬、東蔵の微妙、我當の時政、そして吉右衛門の和田兵衛秀盛。
杮葺落公演初日を通して、一番の舞台。
仁左衛門での「盛綱」は、前回の新橋もとても良かったが、今回は更にそれを上回ると思ったのは、他の役者も揃っての、まさに大歌舞伎の舞台であったからだろう。
特に、吉右衛門の秀盛とのやりとりは、おそらく現代歌舞伎の中で最高の組み合わせでの対決であり、台詞の応酬だけでなく、それに伴う仕種、顔つきを観ているだけでも、高揚感に溢れるものであった。この二人のやりとりは、第一部の『熊谷』でもあったが、この『盛綱』の方がより面白い。
首実検での仁左衛門は、前回よりも更に丁寧。気持ちの変化も、もうひと工夫した感じであった。
後ろ向きになった時の美しさも、仁左衛門ならでは。この美しさは、吉右衛門も敵わない、当代一のもの。
金太郎の小四郎が、びっくりする程の上出来で、そのおかげで、芝居にだれるところが全くなかった。
我當の時政もまた立派。足の覚束なさはあるものの、いったん舞台に座して台詞を言えば、座頭級の存在感となる。
時蔵芝雀東蔵と、女形がみな楷書の芝居であるのも嬉しかった。特に東蔵の微妙は初役だそうだが、そうとは思えない、見事な出来栄え。
橋之助翫雀の注進。
今後の規範となるべき、『盛綱陣屋』の決定版であった。
勧進帳
幸四郎の弁慶、菊五郎の富樫、梅玉義経
幸四郎は、前回團十郎と昼夜役替わりの時より良くなっていたが、相変らず、酒を飲む杯をさして「小さい」と台詞ではっきり言うなど、臭い芝居。
飛び六法では、とうとう手拍子まで起こる。杮葺落し初日の最後の最後(ここまでで午後9時45分)、招待客も多いであろう館内は、かなり高揚した熱気が漂っていたので、手拍子が起こる気配は感じていたが、それを促すような役者の手振りと、下座の鳴り物も、この現象に大きく加担している。(帰宅後に七代目幸四郎のビデオを観たが、幸四郎自身の身振り、下座音楽は今と明らかに違う。決して手拍子が起こるような間を与えていないことがよくわかる。七代目の弁慶は、観客席側に向いて礼をした時も、今のように拍手が起こらない。これは観客もここでの礼が自分達に向けられたものではないことを知っているからだろう。)
今後も、飛び六法と「チャ、チャ、チャ」がセットになるかと思うと、『勧進帳』を観る意欲が失せてくる。
とはいえ、弁慶以外の各役は、杮葺落しに相応しく、しっかりとそれぞれの役をこなしていた。
特に菊五郎の富樫は、自分は今まであまり感心していなかったのだが、今日は実に手強く、二部の弁天小僧の淡々とした感じとは随分違っていて驚いた。幸四郎の弁慶と対峙しているというより、相手の存在はさておいて、関を守るという自己の使命に対して真剣な問いかけをしているような、そんな真面目で凛々しい富樫であった。
梅玉義経も、女形でない分、成駒屋型の色気に欠ける部分はあったが、それでも、袖からのぞかせる赤の着付の美しさは、強く印象に残る。
四天王も染五郎松緑勘九郎左團次と揃う。松緑の片岡は、眉毛の化粧があまりにもV字でキツ過ぎた。

・・・「チャチャチャ」で終わった杮葺落公演初日であったが、一日中、檜の香りがほんのり漂う歌舞伎座で率直に感じたことは、二つ。
一つは、今の歌舞伎界を支える役者は、吉右衛門仁左衛門の二人であるという事実。実際に今日の舞台を観ていて、この二人の存在感は、他を圧倒しているし、また、派手で華やかな目出度い雰囲気の舞台が多かった中で、内実の伴う「歌舞伎」芝居をしているのは、この二人だけであった。(もちろん、演目による配役も影響はしているけれど)
特に吉右衛門は、團十郎の代役もこなしたせいもあるが、一日中出ずっぱりで、今月の座頭的役割を担っており、また、それに相応しい舞台成果も伴っていた。今後も、吉右衛門の役割は、非常に大きなものとなるだろう。
そして二つ目は、やはり、歌舞伎座で観る歌舞伎は違うということ。
自分はこれまで、いい芝居ならどこの劇場でも一緒と思っていたのだが、この3年間の劇場放浪(?)を経て、改めて歌舞伎座の椅子から舞台を眺めると、この空間がいかに神聖なものであったかが、納得させられた。その空間は単に劇場構造だけではなく、そこに参加する役者と観客も含めて作り上げられているものであるということも、本日、実感した次第。
辛く悲しい出来事などを経ての新開場ではあるが、今は、また歌舞伎座で歌舞伎を観られるという安堵感が、自分の心の中に生まれている。