四月平成中村座 昼夜通し

kenboutei2012-04-07

桜満開の浅草。昼夜の合間に、隅田公園を散策。平和な賑わい。
『法界坊』またかの法界坊。まあ、平成中村座のキラー・コンテンツだからなあ。初めて経験するには楽しいだろうが。
冒頭は、串田和美のナレーションで登場人物の紹介。多分録音テープなのだろうが、温泉宿の宴会場みたいなチープさがあって、場内をアットホームな雰囲気にさせる効果があった。
勘三郎の法界坊は、元気であった。もう、病気云々ということは触れなくてもいいほど、生き生きとした法界坊。(むしろ自ら「病み上がりなのに」と自虐ギャグを言っていた。)
笹野の勘十郎、亀蔵の番頭、扇雀のお組、勘九郎の要助、七之助の野分姫、橋之助の甚三郎など、すでにお馴染みの配役で、それぞれ自在に演じる。
ただ、それぞれのキャラが役者の工夫で独自性を発揮すればするほど、主役であるはずの法界坊の存在感が薄れてきている。さらに、法界坊自身も、愛嬌や滑稽さの部分だけが強調され、女を手篭めにしようとし、そのためには殺人も厭わないという残虐でダークな側面があっさりと処理され、法界坊の持つ陽と陰の二面性が伝わりにくい。それは次の大喜利の「双面」においても同じである。(二面性の趣向は違うが)
それぞれのキャラが生き生きと存在感を持って芝居をすることは、現代劇としての歌舞伎を追求する串田演出の特色ではあるが、それは主役(座頭)本位で演出されてきた従来の歌舞伎とは対立するものである。従来から自明ではあったが、この『法界坊』でより顕在化してきた感がある。ただこれは串田歌舞伎の限界というより、新たな挑戦テーマであると受け止めたい。例えば、全く異なる配役、異なる劇場空間で、ダークな面をあぶり出すような法界坊を新演出してみるというのも、面白いと思う。或いは、これも単なる思いつきだが、同じような二面性を内在する黙阿弥の『髪結新三』なんかを、串田和美だったらどう演出できるだろうかと、興味がわく。
『双面』は、暗闇のスッポンから出てきて蝋燭の灯で照らし出される勘三郎が美しく、劇場内の雰囲気も素敵なのだが、その後は薄味。面白くない。派手な立ち回りで最後はスカイツリーと満開となった桜を借景で幕。拍手喝采、スタオベ。(初期の演出は「世界一低い宙乗り」だったが、もう忘れ去れている。そういえば、押し戻しもあったなあ。)
アンコールに応えて、勘三郎が最後に挨拶。
「法界坊は一年半振り。この芝居の時に倒れたので、今日は心配して姉二人も駆け付けてくれた。しかし、こうしてまた再演できて嬉しく、ありがたい。」
波野久里子は椅子席の最前列にいて、劇中、観客席に降りて芝居をする勘三郎の法界坊が持つ手紙で、もう一人の姉ともども、頭を叩かれていた。(こういうやんちゃな勘三郎が好きだ。)
舞台上の両袖には、また客席が設けられ、下手側は三人、上手側は二人のお客が座っていた。
 
夜の部
観客も含めて賑やかだった昼の部に対して、夜の部は地味、盛り上がりにも欠けた。
『小笠原騒動』新橋で一度観た時は新鮮に感じたが、今回は、あまり面白味を感じなかった。全体的に予定調和で事が進み、驚くようなこともなく、あっさりと終わってしまった。
七之助の側室お大の方が良い。女形で敵役という手強さがあり、ここのところの調子の良さが伺える。もう一役のお早は、あまり見所なし。
勘九郎も二役だが、飛脚の小平次が本役。敵役の犬神兵部は、作り過ぎで違和感がある。ただ、将来仁木弾正を観てみたいと思わせる風貌ではあった。
橋之助の良助は、「返り忠」というらしいが、改心する気持ちの変化があまり良くわからなかった。扇雀は三役だが、主役級の小笠原隼人は立役で、やや無理があった。(新橋ではこの役は翫雀だったんだな。あんまり覚えていないが。)
敵討ちものとしては、もっと敵役の存在感を強調し、悪の巧みを描かないと、敵討ちのカタルシスを得られない。水車周りでの水遊びだけでは、全然物足りない。
それにしても、前に観た時は、こんなに白狐の霊力が強調されていただろうか。(結局白狐が全てを解決してくれるのではないか。)
昼の部に続き、これもカーテンコールあり。敵役姿で終わった勘九郎のみ、無表情で挨拶にも応えないのが、少し面白かった。