三月新橋演舞場 昼の部

kenboutei2012-03-18

『荒川の佐吉』序幕の茶屋前の群衆劇が、素人演劇のようでうんざりしていたのだが、昼の30分休憩後の三幕目辺りからは、ようやく持ち直した。といっても、これは真山青果の戯曲の持つ力に助けられてのものであろうが。
染五郎初役の佐吉。さすがに仁左衛門のようには行かない。いつもは泣きそうになる場面でも、なかなかそうならない。台詞の強弱がはっきりせず、時に聞き取りにくいところがあり、観ている方が芝居に没入しにくい。戯曲の力に応えるだけの芝居力の不足といったところか。
亀鶴の辰五郎は、三幕目以降は、染五郎よりも味わいがあり、むしろこちらの方が芝居力があった。
梅玉の成川郷右衛門は、とても任侠の世界の人には見えず、無国籍人のようなクールさ。そこがこの人の魅力ではあるが。
梅枝のお八重は、手強過ぎて硬い印象。彼はあまり世話物向きではないなあ。
錦吾の親分が、正月国立の伝吉に続いて奮闘。
幸四郎の相政は、この人が出れば仕方がないという納得感には乏しい。
福助の丸総女房。
それにしてもこの芝居を観ていると、子供を育てることと世間の関わりについて、考えさせられる。親に捨てられた子供をごく当然のように男二人で育てるこの芝居の世界と、ネグレクトなんて言葉が普通に使われるようになってしまった今の御時世との違い。一体いつからこうなったのか。
『山科閑居』九段目は、藤十郎の戸無瀬、時蔵のお石、福助の小浪、幸四郎の本蔵、染五郎の力弥、菊五郎の由良之助という、思いがけない大舞台。
藤十郎の戸無瀬、さすがにこうした丸本歌舞伎での存在感は突出している。最初の花道の出でもはや圧倒。芝翫の戸無瀬のように、雪道を世話物のように写実に歩く事なく、堂々と歩いて、花道七三でぴったり止まる。これぞ王道。「ご無用」のところは、二重屋台に駆け上がり、上手の障子前まで近づいた上で、決まる。八十歳にして、かなり動きがありながら、それでいてごく自然で流れるような動きに陶酔した。小浪と裲襠を間違える入れ事は、ごくあっさり。
芝翫雀右衛門も亡くなり、サラサラとした歌舞伎役者、芝居ばかりがますます跋扈する中で、この濃厚感たっぷりの藤十郎の存在は極めて貴重。できることならこの戸無瀬は、今月のように昼夜意図のわからない適当な演目立ての中で埋没させるのではなく、もっとちゃんとした座組と企画の中で集客し、じっくり観せてほしいものだ。
時蔵のお石は、藤十郎に対して奮闘しているが、受けの芝居に余裕がなく、それが対峙する台詞になった時の硬質感につながっていると思った。
福助は、最初に駕篭から出て首をカクカクさせながら入ってきた時は、世話物の娘役と勘違いしてるのではないかと思ったが、その後は神妙でまずまず。
幸四郎の本蔵、「蛙の子は蛙」を「キャールの子はキャール」と言う。田舎芝居みたいでみっともない。
菊五郎の由良之助には驚いたが、意外と良かった。これなら七段目もできるのではないか。