正月浅草歌舞伎 第二部

kenboutei2011-01-10

正月浅草のショート歌舞伎。しかし、第一部と違って内容のともなう、良い舞台であった。
『壺坂霊験記』嫌いな狂言だし、去年も観たばかりだし(とはいえ殆ど覚えていないが)、全く期待していなかったのだが、意外や、なかなかの掘り出し物。
七之助のお里、愛之助の沢市。この二人の一生懸命さが、何より心を打つ。ただし、第一場の「沢市住家」は、それ程面白味はない。やはり若手の二人では手に余る一場。例えば、七之助のお里が最初に出てきて、色々と一間の片付けをしたり、手拭を折り畳んだりする動作が、いかにもぎこちなく、この貧家で盲目の沢市を甲斐甲斐しく世話し、夜には寺に願掛けしている女房の雰囲気からはほど遠い。愛之助の沢市も、人の良さは伝わるものの、お里に男がいるのではないかという嫉妬や疑念、後になって、お里に嘘までついて死を選ぶ、実は複雑な人物像(と、自分は解釈している。)にはなっていない。
しかしながら、二人が丁寧に芝居を運んでいるのはわかるし、だからこそ、この先うまくいってほしい、という劇中の沢市夫婦に対する思いと同じものを、七之助愛之助コンビにも抱くようになった。
結果として、後の「谷底」の奇跡で、沢市の眼が開いてからの二人の喜びを、自分も素直に受け止められた。特に、ここでの愛之助は、初めてお里の顔を見た時の反応や、いつもの癖で目を瞑って杖をついて歩き出そうとするところなどが、嫌味がなく自然で、とても気持ち良く観ることができた。
また、二場「壺坂寺山中」からは床の六太夫・寿次郎が熱気のある語りと三味線で、舞台を大いに盛り上げたことも特筆したい。
新橋の『実盛』の團十郎でも思ったことだが、不思議な芝居を納得させることが歌舞伎役者の魅力の一つ。七之助が「将来的には先代勘三郎歌右衛門に近づきたい」と筋書で語っていたことを確かめるためにも、20年後か30年後に、またこのコンビでのお里沢市を観てみたいものだ。(果たしてそれまで自分は生きているのか?)
『黒手組曲輪達引』「黒手組の助六」は、調べると平成18年5月に観ているのだが、やはりすっかり忘れていた。(菊五郎の矢ガモの時だった。)
忘れている芝居は、たいてい、つまらないものだったりするが、今日のは、なかなか面白かったので、たぶん、忘れないと思う。(・・・少々不安だが。)
序幕の「忍岡」、亀治郎の番頭権九郎と春猿の白玉の道行が、よく釣り合っている。亀治郎は早替わりで番頭から牛若伝次に。これは猿之助の型だそう。一旦花道へ引っ込み、再び番頭に戻って池から上がってくる。この後、お約束の入れ事となり、今日の舞台では、ライブステージとなり、福山雅治と「龍馬伝」を話題にしていた。(自分がドラマで龍馬を斬ったことや、「従兄弟」の話もしていた。)これも、菊五郎的脱力感とは違い、若者的ノリがあって、浅草歌舞伎には似合っていた。
二幕目は「新吉原仲之町」。亀治郎助六は見た目にすっきりし、この役がぴたりと嵌った。『三人吉三』のお坊では、黙阿弥物は合わないと思ったが、なるほど、器用でケレン味のあるところは、猿之助同様、小團次系統には合うはずで、そういう意味では黙阿弥の芝居でも面白いのはありそうだ。(やはり『三人吉三』も、小團次が初演した和尚の方を観たかった。)
寿猿の白酒売(といっても爺だが。)が風情あり。
大詰「格子先」。ここが一番面白い。『助六』のパロディとして、吸付莨や下駄を頭に乗せる件が、意休(この芝居では鳥居新左衛門)から助六へと逆になっている趣向が、黙阿弥ならではで、今回初めて面白く感じた。
亀鶴の新左衛門が立派。この人の芝居で初めて手強さを感じた。また、顔が初代、二代目鴈治郎に似ており、さすがに血は争えないと感嘆すると同時に、今後の立役での可能性に期待する気持ちを強く覚えた。
今回は、水入りもつくサービスで、ここは基本的には、この前新橋演舞場で海老蔵が見せたのと同じだが、今日の浅草の方が数段面白く感じたのは、単に天水桶に浸かるだけといった感じの新橋と違って、わざと大げさに中に入って観客に水しぶきをかけたりする遊びがあったことと、長梯子を使っての幕切れが効果的であったから。これからは、『助六』の水入りといえば、今日の舞台の方を、先に思い出しそうだ。パロディがオリジナルを超える良い一例。
七之助の揚巻、愛之助紀伊国屋文左衛門笑三郎の三浦屋女房。

春猿笑三郎猿之助の弟子たちと亀治郎が組むのを久しぶりに観たような気がするが、お互い経験を積んで、猿之助不在の舞台でも、きっちり芝居が成り立つようになったなあと、感心。右近、笑也、猿弥、段治郎も含めて考えると、立役・女形のバランスも悪くないし、改めて一座として立ち上げても良さそうな気もした。

お年玉挨拶は、笑三郎。極めて丁寧な挨拶。