正月浅草歌舞伎 第一部

kenboutei2011-01-08

三人吉三巴白浪』

「心がなければ芝居にならないけれど、それだけじゃ歌舞伎は成り立たない。(中略)すべてをリアルにやったらチープになってしまう。だけどそこに技術が入るともの凄く芝居が膨らむ・・・。」

これは、筋書のインタビューで、七之助が語っていた言葉。先代勘三郎歌右衛門による『壺坂』のビデオを観た時の感想なのだが、今日の『三人吉三』の「大川端」で、七之助のお嬢、亀治郎のお坊のやりとりを聴いていて、幕前に読んだこの言葉を思い出した。
七之助のお嬢は、黙阿弥の台詞の一つ一つの意味を、噛み締めるような感じで丁寧に言う。一方、亀治郎のお坊は、もっと砕けて、時には自分なりの強弱をつけて、生世話っぽい喋り方をする。
二人とも、手法は異なるものの、その台詞の意味をわかりやすく観客に伝えようとしている点では同じだと思った。ところが、この二人の会話が、なかなか自分には伝わらなかった。
それは、どちらも黙阿弥の七五調のリズムから離れ、リアルな芝居の台詞を意識し過ぎているからだと思う。(特に、亀治郎にその傾向が顕著であった。)
歌舞伎の様式(七之助の言葉では「技術」)の中でこそ伝わってきたものが、リアルを追求することで、崩れてしまう。冒頭の七之助の感想は、『壷坂』に限らず、黙阿弥も含め、歌舞伎の芝居全体に共通することであり、図らずも、今日の二人の会話が、そのことを証明しているようでもあった。
この二人に比べると、愛之助の和尚は、黙阿弥調にまだ近い。(彼は上方役者なのだが。)
亀治郎のお坊は、目元をつり上げた強めの化粧で、これでは小悪党、安達元右衛門か微塵弾正である。おそらく黙阿弥物は、彼には合わないのではないか。それでもやるのだったら、和尚の方が良かったと思う。
七之助のお嬢、「月を朧に・・・」の台詞は、前述の通り丁寧すぎてリズムを失っている。まだ手探りといったところか。
おとせは新吾。去年の『四谷怪談』の時より、多少、女形がサマになってきた。
「大川端」の後、いきなり「吉祥院」へ進み、途中の「伝吉内」などは、番頭がでてきて解説で済ませるという荒技。(しかし、この話は複雑すぎて、口頭だけでわからせるには無理がある。)今回の浅草は、午前11時に始まり、午後2時には終わるという、例年以上の短時間興行。だったら、こんな中途半端な出し方をせず、むしろ「大川端」一場で、他の見取狂言を入れた方がすっきりする。突然、おとせと十三が出てきて、畜生道のため兄に殺されるという展開は、何度も通し狂言を観ている者にとっても、乱暴な見せ方である。
先月の国立の『忠臣蔵』といい、柔軟な演目構成は歌舞伎の得意技とはいえ、あまりにも安易かつ不親切。(黙阿弥の「三親切」にも反している。)主催者側からすると、「長い、難しい、つまらない」といった負の歌舞伎感に対するアプローチなのだろうが、方法は完全に間違っていると思う。
「大川端」の三人を観ると、後は推して知るべし。評すまでもなし。最後の「火の見櫓」の七之助が、割合に良かった程度。
亀鶴の十三郎。
結局、全場を通じてもっとも黙阿弥らしかったのは、「吉祥院」での花道つけ際、和尚吉三と捕り手のやりとりであった。
『独楽』亀治郎。猿翁十種の踊り。独楽を使う趣向やセットは楽しいが、踊りとしては観るべきものはないなあ、という感じ。
お年玉挨拶は、亀鶴。