十二月日生・菊之助の玉手

kenboutei2010-12-25

今年の歌舞伎の見納めは、日生劇場『摂州合邦辻』の通し、菊之助東京初役の玉手の千秋楽。寒い寒いクリスマスの夜、自転車で日比谷に駆け付ける。自分の好きな演目を、自分の好きな役者で観ることができ、良い見納めとなった。
『合邦』の通しは、国立劇場での藤十郎以来。今回の今井豊茂の補綴は、国立よりもコンパクトにわかりやすくまとめている。
序幕「住吉神社境内」では、玉手、俊徳丸、次郎丸の他に、浅香姫も俊徳を追って出てくる。国立では浅香姫が登場せず、物足りなかったのだが、やはりここで出る方がわかりやすい。
幕間なしで二幕目「高安館」と「庭先」が続く。ここまでで1時間ちょっとだが、ダレもせずテンポよく進み、それほど苦にならなかった。
菊之助の玉手は、この後の「庵室」とは違い、クールさが目立つ。「住吉」での俊徳丸へのくどき、俊徳の後ろに回って肩をかけたりするところは、国立の藤十郎は濃厚な美しさがあったが、菊之助は極めて淡白で、やや拍子抜け。
「庭先」での時蔵の羽曳野との対決も、国立の秀太郎VS藤十郎の面白さには及ばない。これは東京の役者と上方の役者の色の違いなのかもしれない。
驚く程良かったのは、梅枝の俊徳丸。先月の新橋の梅若丸でも感じたことだが、その古風な顔が素晴らしい。それだけでなく、台詞や身のこなしもしっかりしており、前髪のやつし姿がこれほど似合うとは思わなかった。今回の配役が公表される前は、梅枝は浅香姫だろうなと想像し(松竹座で一度やってるし)、それも悪くないとは思っていたのだが、浅香姫を観るよりも俊徳の方が断然良い。曾祖父の三代目時蔵や三代目左團次系統の、江戸和事をこなせる役者の誕生に立ち会ったと感じた。最近の歌舞伎役者では、この系統が殆どいないので(梅玉くらいかな。)、このまま素直に成長してほしい。(それにしても、ひいじいさんにそっくりな顔だ。たまたま見た「歌舞伎美人」の梅枝のインタビュー記事に、本人と三代目時蔵の写真があったが、ほとんど同じなので笑ってしまった。隔世遺伝の極み。)
一方、右近の浅香姫は、顔も動きもゴツゴツとしていて、良くない。赤姫での花道の歩き方もぞんざいで、女形としては不向きかもしれない。
次の「万代池」、国立では「南門」と「万代池」の二場だったが、これを一場にまとめている。ここでようやく菊五郎の合邦が登場する。
菊五郎初役の合邦は、どちらかというと好々爺。次の「庵室」になってもそうだったが、とても武士の血を引く者とは思えない。全体的に世話っぽくもあるけれど、まあ、することにソツはなく、滋味も漂う合邦である。
「万代池」では、チャリ場の踊りが良かった。ここは、国立の我當でも良くなかっただけに、歌舞伎では難しい場だと思っていたのだが、菊五郎及び菊五郎劇団の力によって、文楽とはひと味違う、楽しい場面となっていた。
そして、「庵室」。
菊之助の玉手は、その前までの場とは異なり、表情が結構変わる。これは、俊徳丸に対して、それまで偽りの恋であったのが、この場では真実の恋に変わっているという解釈なのだろう。(帰宅後、やはり歌舞伎美人のインタビュー記事を読んで、さらにそうであったと確信した。)
そういう解釈もありだとは思う。
ただ、ちょっとひっかかったのは、菊之助はこの「庵室」を、本文に近い形で演じていることである。
すなわち、くどきは、前半の母親に向かっての一度だけ。「猶いやまさる〜」からを分断し、二度目の出で俊徳丸に向かって改めてくどきを見せるということはしない。
この結果、玉手の俊徳丸への愛の行動・表現は、極めて希薄になった。
文楽に興味を持ち出してから歌舞伎を見直すと、同じ狂言でも歌舞伎では役者本位の入れ事をして、本文通りにやらないことに対し、不満を感じる場合があり、自分は、この『合邦』でも、歌舞伎ではほとんどくどきを二つに分けて演じることに満足できなかった。従って、猿之助藤十郎が本文通りに演じた時は、その出来は別にして、ただそれだけで肯定的に受け止めたものでもあった。
しかし、今日、菊之助が本文通りで行ったことに対して(それは即ち、梅幸菊五郎とは違う型で演じたということでもあるのだが、そのことはまた後に触れる。)、そしてそれを、ある程度は演じきったことに対しては、また別の感想を持った。
というのも、たまたま最近、古靱太夫のCD集を手に入れ、その『合邦』を聴いたのだが(三味線は三代目清六!)、古靱太夫の語る玉手は、間違いなく「偽りの恋」であると思った。その語りから圧倒的な存在感を持って描き出される玉手御前には、俊徳丸を好きだ、などという、ある意味軟弱な気持ちは入り込む余地はない。それほど必死に高安家を守ろうとしているのが、わかるのであった。つまり、本文通りとするなら、玉手は決して俊徳丸を愛していたわけではない、と思えるのである。
一方、歌舞伎役者が演じる玉手を振り返ってみると、その殆どが「真実の恋」という解釈である。それは梅幸歌右衛門の語る芸談からでも読み取れる。
そして、歌舞伎はだからこそ、くどきを二つに分けて、「猶いやまさる恋の淵」からは、俊徳丸を前にして行うのではないだろうか。俊徳丸を本当に愛しているのだということを表現する上では、本心は別にある本文通りでは、具合が悪いということに行き着き、俊徳丸への愛の表現をもっと加える必要があった、ということなのではないか。(まあ、歌舞伎の場合、婆さん相手のくどきでは、女形が映えないという、もっと切実な事情の方が強いのかもしれないけど。)
そうであるなら、歌舞伎でも本文通りにやるということは、玉手の俊徳への恋は、「真実」ではなく「偽り」という解釈になる。
しかし、菊之助の意図するところは、やはり「真実」に重きを置いているようだ。(それは変化の多くなる顔の表情だけではなく、俊徳丸への身体の寄せ方などからも感じられることであった。)
こう考えていくと、菊之助の玉手は「性根は真実の恋なのに、型は偽りの恋」という構図になって、自分の理屈の中では矛盾した表現となってしまい、だんだんわけがわからなくなってしまったのである。
筋書などには、六代目、梅幸菊五郎と続く「家の芸」的な扱いとしての玉手が語られている。しかし、「庵室」を本文通りに行ったのは、六代目だけ(それも一度限り)だという。つまり今回本文通りとした菊之助の玉手は、梅幸菊五郎の芸の系列からは異なるわけである。その点も不思議に思ったのだが、後から、松竹座での初役の時に、この玉手を玉三郎から教わったということを知り、少し合点がいった。
玉三郎の玉手というのは、まだ一度も観ていないが(筋書の上演記録にもないし、演じたことがあるのだろうか?)、『九段目』を本文に近い形で演じたことのある玉三郎だけに、玉手も本文通りを好むことは容易に想像がつく。おそらく、菊之助本人の感覚も、玉三郎に近いのだろう。(観客としての自分も、上述の通り、そっちを好んでいたし。)
まあ、これは自分が(古靱の語る)本文の解釈を「偽りの恋」とし、更に従来の歌舞伎でのくどきを分ける型を「真実の恋」と解釈したことから生じた、勝手な混乱ではあるのだが、いずれにせよ、菊之助の玉手は、「庵室」前のクールさと、「庵室」の熱っぽさ(その中にもクールさが時折入り込む)の落差が大きく、そこに混乱の元があったのは確かである。(「ツンデレ玉手」という言葉さえ、頭に浮かんでしまった。)
ただ、菊之助が「庵室」を本文通りにしたことで、良かった点もある。それは、玉手に凄みが出たこと、玉手というキャラクターの持つ妖気のようなものが、菊之助を通じて実にリアルに表出されたことである。
特に、「邪魔しやったら蹴殺すぞ」のところ(いつもの歌舞伎では「邪魔しやったら許さぬぞ」と穏やかな表現になっていて、これも個人的には物足りなく感じていた箇所。)は、声の張りといい、すくっと立ち上がった身体の形といい、本当に菊之助の殺気を感じ、会場からもどよめきがあった程である。
最初の花道の出は、神妙ながらも、匂い立つ美しさ。門口に立つ姿も決まっているが、台詞や動きはやや強過ぎる感があった。
何だか貶しているのか褒めているのかわからなくなってきたが、まだ一度しか観ていない菊之助の玉手、あと一度や二度は観て改めて色々と確かめたいところだが、残念、今日は千秋楽の夜の部なのであった。またの再演を是非観たい。また、この演出の元となった(?)、玉三郎の玉手も、いつかは観てみたい。(それまでは、歌右衛門梅幸のビデオを観て日を送るとしよう。)
この場の菊五郎の合邦は、やはり柔らかすぎて、「おいやい」が効かない。東蔵の母親は手堅い。松緑の入平。

『合邦』の後は、松緑『達陀』
以前、NHKで観た松緑のスタジオ版は面白かったのだが、生の舞台で観た菊五郎のはそれほどでもなかった。
今回は、面白かった。全く飽きなかった。日生劇場の雰囲気が、この踊りに合っているのかもしれない。出てくる役者の一生懸命さが、膝を所作板に叩き付ける音と共に、びんびんと観客に伝わってきた。
青衣の女人は時蔵時蔵松緑のコンビは、案外似合っている。右近はもの凄く腕が長いことを発見した。

日生劇場は、あの『細川の血達磨』以来。さすがに今回は、「普通の」歌舞伎興行なので、客層も、それなりに落ち着いてました。
舞台の上に白く塗られた破風を飾って、舞台を横長にしたのは良い工夫。結果として舞台の寸法はかなり小さくなったが、書き割り感も加わって、歌舞伎の雰囲気は良く出ていた。今の新橋演舞場よりも、歌舞伎との親和性はあるかもしれない。

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↑混乱の元となったCD。最近はiPod touchに床本のPDFを入れて、それをSideBooksで読みながら聴いている。(ネットのアーカイブは古典の宝庫。iBooksの邦書対応が遅れていても、自分の場合、全然構わない。自炊も不要。)