新橋演舞場 七月大歌舞伎 夜の部

kenboutei2010-07-11

『暫』以前は、歌舞伎十八番の『暫』がかかるとなると、一も二もなく喜び、わくわくしたものだが、今は、何だか食傷気味のような気分になる。
團十郎の『暫』自体は、平成15年以来だから7年振りなのだが、それ以降、海老蔵襲名時去年も手掛けており、また何人かの女形による『女暫』や、去年の團十郎の『象引』など、似たような趣向の演目が多かったせいかもしれない。(一方で、同じ歌舞伎十八番でも、『矢の根』なんかは、最近は全然東京では掛かっていない印象がある。)
そういう先入観があったためか、今日の舞台は、平凡で、面白味は殆ど感じなかった。初役という段四郎のウケの藍隈の古怪さと、門之助の桂の前の、やはり古風な顔つきが印象に残った程度。
團十郎は、見得や引っ込みなどで、あまり唸らなくなっていた。
『吃又』吉右衛門の又平、芝雀のおとく。これも『暫』同様、いやそれ以上に「またかの吃又」で、吉右衛門芝雀コンビは、平成19年の歌舞伎座と同じ(他の配役もほぼ同じ)だったが、しかし、これはとても面白く、全く飽きずに観ることができた。(ここが歌舞伎観劇の面白くて不思議なところだ。)
前半の絶望感の深さは、吉右衛門の又平の特徴でもあるが、今日はそこに、どこか人格異常の気配も感じた。自分の身体の不自由さからくるイラツキのようなものが、今までよりも顕著に表れており、それを感情的に抑えられずにいる。そして結果として、絶望へと行き着く。去年の團十郎の又平のような、障害者でも性格の良い人物という役作りとは、全く異なる又平へのアプローチである。又平が人格異常では本当はまずいのだが、吉右衛門の又平には、そう感じさせる程、追い詰められている人間の極限の状態が見えてくるようであって、自分は凄みすら覚えたのであった。
素晴らしかったのは、おとくから「指も十本、何故吃りに生まれたか」と嘆かれた後に、上手に身体を向けて、左腕で涙を拭い、右腕は下手側に差し出す形(一見すると、駆け出すポーズに似ている)に、一瞬でなる鮮やかさである。絶望と悲しみを、このたった一つの動作で表していて、とても良い形でもあり、強く目に焼き付いた。
芝雀のおとくも、また良い。手水鉢に自画像を描き終えた又平の手から筆を外そうと、又平の指を擦りながら解きほぐところの情愛。
歌六の将監、吉之丞の北の方と、脇も充実。種太郎の修理之助も新鮮で良かったが、最後の引っ込みでの顔の表情が、何だか変だった。
『馬盗人』三津五郎の復活舞踊。初めて観るが、単純に面白かった。馬がくどきや六法で花道を引っ込み、大奮闘。馬の足役者の世界を描いた成瀬の『旅役者』を思い出した。
役者のメイクや舞台装置が、おやつのカールのCMアニメの世界であるのも、ほのぼの感を醸し出している。
歌昇の百姓の善人振りも良い。
三津五郎と巳之助の悪党メイク顔が似ているのを見て、初めて二人が親子であることを実感した。