新橋演舞場 七月大歌舞伎 昼の部

kenboutei2010-07-10

先月観た歌舞伎は、渋谷のコクーン歌舞伎だけだった。月1本だけというのも、随分久しぶり。やはり歌舞伎座がなくなると、歌舞伎を観る機会は減るなあ。(こっちの気力も衰えてきているし。たとえ時間があっても、国立の鑑賞教室や赤坂歌舞伎までは、なんだか観る気が起きないでいる。)
今月は、新しい松竹の東京拠点、新橋演舞場で、芝翫富十郎吉右衛門團十郎三津五郎福助と揃えた大歌舞伎。(とはいえ、狂言立ては、かなりがっかりなものだが。)
今日は、紆余曲折の末、昼の部を観る。
『名月八幡祭』福助の美代吉、三津五郎の新助、歌昇の三次。
池田大伍が黙阿弥の作を書き替えた新歌舞伎。
新歌舞伎にも、新歌舞伎なりの型や台詞の調子があるはずなのだが、福助の美代吉は、そういうものから全く自由に、好き勝手な芝居をしている。一人だけ現代劇調で、周囲から遊離。歌江や寿猿、芝喜松などの脇が充実した芝居をしているだけに、なおさら、そのアンバランスが目障り、耳障りとなる。
金の工面をするかわりに家に置いてくれと頼む三津五郎の新助に対し、愛想の良い顔で返事をしながら、観客席に向かっては、舌でも出しそうな不敵な顔を作って笑いを取りにいく。類型的なコミカル演技。この前の『野崎村』のお光と全く同じで、役の性根を表層的にしか理解していない。
「歌舞伎役者がやれば、それは歌舞伎である」という言い方が時々されることがあるが、「歌舞伎役者がやっても、歌舞伎にならない」という芝居であった。
ふと思い出して、帰宅後に、平成2年の初役時のビデオを観てみると、その当時の方が、ずっと良い。未熟で硬い部分はあるが、台詞も新歌舞伎的に謳い上げ(ちょっと新派っぽいが)、しっとりとした情味があり、深川芸者としての色気も感じられる。破調なアバズレみたいな今日の美代吉とは雲泥の差だ。まだ歌舞伎役者としてはベテランの域でもないのに、20年前の方が優れているとは、どういうことなのだろう。
対する三津五郎の新助も、福助に合わせたかどうかは知らないが、それほど面白くはなかった。「江戸っ子がなんだ!」と欺瞞を暴く台詞に、凄みを感じられなかった。
歌昇の三次が手堅い。段四郎の魚惣は、台詞が未だ入っていなかったが、それでも江戸前のイキの良さ、手強さがあって感心した。
歌六の藤岡慶十郎、右之助の魚惣女房お竹。
本当に、福助以外はみんなしっかりとした芝居であった・・・。
『文屋』富十郎。すっきりとして綺麗。だが、眠ってしまった。
金閣寺團十郎の大膳、吉右衛門の東吉、福助の雪姫、芝翫の狩野之介、東蔵の慶寿院、歌六の軍平。
團十郎吉右衛門は、本来ニンが逆だと思うのだが、それでも、二人とも良かった。
團十郎は、それほど大きさは感じさせないが、台詞に力が入っていて、「團十郎復活」をようやく実感させられた思いになった。
吉右衛門の東吉は逆に、「五尺足らずの小男」を体現すべく身体を殺し、それでいてきっぱりとした動きが気持ち良い。
でも、やはりこの二人なら、逆の配役で観たかったと思う。
福助の雪姫が、とても良い。さっきの美代吉とはえらい違い。型がきちんと決まっていて、その型通りにやりさえすれば、やはり福助は良いということなのだろう。やや少女っぽい雪姫(というか赤姫)ではあったが、歌右衛門を彷彿させる台詞廻し、爪先鼠に至るまでの制約された動きの中での美しさなどは、目を洗われるようであった。
爪先鼠での桜吹雪は、それほど大量に降らせず、時間も短かったが、それがかえって、その一瞬の美しさや儚さをしっかりと記憶に留めさせる効果を生んでいて、良かったと思う。
福助は、安易な役に走らず、もっと古典劇での女形に、しっかり取り組んでもらいたい。その方が福助の魅力を一層引き出せると思う。
芝翫の狩野之介は、ただ出てきて去って行くだけなのだが、足取りもしっかり、存在感は十分であった。
歌六の軍平は、昨年の新橋でも観たが、やはり雰囲気があって、自分は好きだ。
 
・・・なんだか、福助に一喜一憂させられた、昼の部であった。