四月歌舞伎座 第三部

kenboutei2010-04-03

長かった「さよなら公演」も、いよいよ今月が本当に最後。歌舞伎座の客席全体も、一層気合いが入っているようであった。(「久しぶりに大向こうで声掛けてみた」っていう人が多かったような。)
今日は三部を観劇。本当は最終日を予定していたのだが、2階席しかとれず(チケットweb松竹で、一旦は1階席が取れたものの、途中で回線が切れて取り直しとなってしまった。)、特に『助六』は花道の所作を観たいので、もう1日追加した次第。1階2等の前列。
『実録先代萩初めて観る芝居。明治初期に黙阿弥が別の題名で書いたもの。『先代萩』の世界を借りた子別れ物。
政岡ならぬ乳人浅岡に芝翫、千之助が若君亀千代、浅岡の別れた実子千代松に宜生。千代松を浅岡に引き合わせる家老に幸四郎
配役を紹介するだけで筋の紹介も終わってしまうような、他愛ない話。感想を書くにも困惑してしまうが、まあ、御簾が上がって、下手に座している芝翫の浅岡(衣装は政岡そのもの)の大きさ立派さを観ると、やはり芝翫で本当の政岡を観たい気にはなる。
芝翫幸四郎も、多分に心理描写が好きなので、こういう実録ものの方がぴったりフィットする感じもある。(逆に、もともと実録めいた芝居のする芝翫幸四郎以外で、この役を観るのはしんどいだろうと思った。上演記録を観ると、梅幸が結構演じていたようだが、どんな芝居になっていたのだろう?)
千之助と宜生の子供同士のやりとりに、大人の意向を無視したあどけなさがあって、そこは多少面白かった。
芝雀、萬次郎、扇雀、孝太郎が、お局役で最初と最後に登場し、御名残狂言的顔見世芝居の面目はなんとか保ったようだが、それでもやはり何故この狂言?という疑問は拭いきれない。
橋之助が忠臣松前鉄之助。児太郎が腰元役で、こちらはご注進。(昨年の『幡随長兵衛』の金平芝居で衝撃を受けた破壊力は健在だった。)
助六歌舞伎座最後はこれで締めると、最初から決めていたことが容易に想像できる、豪華キャスティング。
團十郎助六玉三郎の揚巻、左團次の意休、菊五郎の白酒売、仁左衛門のかんぺら門兵衛、勘三郎の通人、福助の白玉、三津五郎の福山のかつぎ、歌六朝顔仙平、東蔵の満江、秀太郎の三浦屋女房。そして、海老蔵の口上。
團十郎助六は、前回より良かった。花道の所作が極めて自然。流れるように動く。さらにその自然さは、「どうでんすか、どうでんすか」と舞台に入ってからの台詞廻しでも同様で、この台詞廻しは、非常に驚くものであった。
團十郎の台詞廻しに難があることは、誰もが感じていることだと思うが、それを一番意識しているのはおそらく團十郎本人であり、だからこそ團十郎は、できるだけ滑舌よく喋ろうと、大きく息を吸い込み、甲高い声で勢い良く台詞を吐き出す。結果としてそれは、口跡は良くないものの、一種の團十郎調として、慣れると味わいすら感じる台詞廻しでもある。
しかし、今日の團十郎の台詞には、そうした自覚的に滑らかに喋ろうという意識が薄く、従って余計な力みがとれ、甲高く声を張り上げることもなく、極めて自然体の中での台詞となっている。台詞から助六という役を作っているのではなく、助六というキャラクターから自ずと出てくる台詞となっている。
これは、これまでの團十郎の他の役でもなかったことである。(弁慶にしろ、外郎売にしろ、吃又ですら、團十郎の台詞廻しは、ほぼ一本調子であったし、それが團十郎團十郎たる所以であり、魅力でもあった。)
例えば、かんぺら門兵衛とのやりとりで、門兵衛から「その「よ」が気に入らない」と言われることになる、「〜だよ」と言う時の「よ」は、いつもだと、門兵衛に突っ込まれるフリとして、はっきり言っていたのだが、今日の團十郎は、極めて小さく、語尾に行けば行く程消え入るような言い方をする。(ほとんど「よ」は聞こえないくらいだ。)ネタフリを意識するのではなく、助六としての自然な言葉を意識した言い方なのである。
見方によっては、この團十郎の台詞廻しは、あっさりし過ぎて、物足りないと思うかもしれない。團十郎独特の、語尾を高く張り上げる爽快感を期待すると、肩透かしをくらう。
しかし、自分は、この変化を面白く受け止めた。程よい脱力感と、全体的な柔らか味と滑らかさ。これまでの團十郎の特色とは逆のイメージ。
大病を克服しての悟りといえば大仰かもしれないし、老境に達する芸の域というのも言い過ぎだと思うが、どこか枯淡の味わいを感じる、このイメージは、嫌いじゃない。
剥き身の隈取りの作られたキャラクターでありながら自然体という、團十郎の新しい助六像を観た思いである。
玉三郎の揚巻も、また良い。花道での佇まいに、ほろ酔い気分が漂う。気強さと色気。最高の揚巻。やや粘り気のある台詞廻しにも、古典味が感じられた。揚巻ならではの豪華な衣装も、全く衣装負けしない貫禄があり、本当は小さいはずの顔が、歌舞伎役者らしく大きく見えたのも、芸格があるということなのだろう。久しぶりに、眼福という言葉を思い出した。
菊五郎の白酒売も、上方のじゃらじゃら感とは違い、ちょっととぼけた感じのおかしみに、江戸和事の魅力を味わうことができた。この味わいは、菊五郎だけのものだと思う。
仁左衛門の門兵衛は、さすがにうまいが、湯上がりの浴衣一枚の姿は、線の細さが目立ち、他の役の方が良かったように思う。(個人的には意休が観たかった。)
勘三郎の通人は、ただただ楽しい。團十郎の股をくぐる時は、大病克服を喜び、更に海老蔵結婚の祝いも言う。(夏雄兄さん、孝俊ちゃんと本名で言っているのも面白かった。)菊五郎の番になると、寺島しのぶの外国映画祭での受賞に触れ(一句詠みかけたが、順序を間違えたらしく、意味が通じなかった。それもまたおかしかったが)、先代勘三郎菊五郎の股をくぐったので、親子でダブルヘッダーだと言うのも、何だか嬉しかった。
花道に入ってからは、さよなら歌舞伎座興行の話となり、「さよなら、さよなら、さよなら・・・」とこれまでの興行を指折り数え、「随分(金を)使ったねえ」。最後は、新しい歌舞伎座でも夢のような舞台を、と締めて揚幕へ。
左團次の意休も、前回同様アクの強さが抜け、立派な意休。
福助の白玉は終始神妙、三津五郎の福山のかつぎは、江戸前の粋と意気に溢れる。
秀太郎が三浦屋の女房。花魁道中について回るだけの役で(今まであったかな?)、ちょっと勿体ない。この座組であれば、満江でも良かったのではないか。
その満江は東蔵
市蔵・亀蔵兄弟が、股くぐりの侍と奴。侍が父の持ち役であったことを考えると、さよなら興行でのこの配役は最適。
並び傾城では、松也がなかなか綺麗であった。
口上の海老蔵は、他の役者がする口上とは異なり、『助六』上演の歴史を、結構詳しく語っていた。
・・・まだまだ書きたいことはあるが、キリがないのでこの辺でやめる。とにかくみんな良かった。
お金と時間があれば毎日でも観たいくらいの、至福の2時間であった。(次は千秋楽まで我慢。)