正月新橋演舞場花形歌舞伎・昼の部

kenboutei2010-01-03

『対面』獅童の五郎、笑也の十郎、右近の工藤、その他澤瀉屋一門。
正月の晴れやかな舞台に祝祭・儀式性の高い『対面』はぴったりなのだが、何故かそんな雰囲気にはならない。
理由を考えてみると、一つは、役者自体にそうした祝祭・儀式の感覚が備わっていないこと、もう一つは、新橋演舞場という舞台空間もまた、歌舞伎の持つ祝祭性に欠けているということ、さらにもう一つ挙げると、今日の一幕は、全く大向こうが掛からず、極めて空気の冷ややかな舞台であったということだろう。
こんなに面白くも何ともない『対面』は、あまり記憶がない。
役者はともかく、こういう芝居は、やはり歌舞伎座の持つ独特の空間の中で、大向こうが振り注ぐように掛かってこそ、楽しめるものだということが、逆説的に確認できたような気がする。(果たして、新しい歌舞伎座は、そのような雰囲気を持っていてくれるだろうか?)
獅童の五郎は、まだ迫力不足。荒事としての力感がもの足りない。一つ一つの型がしっかりと固まっていないことも、そう感じる一因だと思う。
笑也の十郎は、花道から出てきた時に、あまりに首が長いことに驚いた。何だか10代の若手のようにひょろひょろしていて、全く年相応の歌舞伎役者には見えなかった。更に、手の使い方があまりうまくない。(笑也の手は、獅童の手よりでかく、ゴツゴツしている。とても女形の手には見えなかった。)
右近の工藤は、無難ではあったが、高座に移動する時の歩き方が、武士のようであった。また、高座に座ってからも、話している相手の方を見過ぎで、これでは座頭である工藤の風格が損なわれる。
というわけで、何の感動も与えない、ただ教科書通りなぞっているだけの舞台であった。
『黒塚』右近の岩手。昼食後の『黒塚』はつらい。かなりの部分、気を失っていた。大きな三日月を背景にした芒原は、もっと奥行があれば良かった。(やっぱりこれも歌舞伎座の舞台が合っているのかなあ。)
『鏡獅子』海老蔵の『鏡獅子』は、襲名以来。前シテの弥生は、あまり感心しない。綺麗は綺麗だが、踊りとしての柔らかみに欠ける。手獅子に引っ張られての引っ込みも、相変わらず不器用。
後シテの獅子は、さすがの迫力。但し、時々、目を剥いたり、口を歪めたり、不必要な「見得」をするのは感心しない。剥き身の隈だけでも、立派な獅子になっているのだから、余計なことはしない方が良い。(子供の胡蝶を怖がらせてどうする。)
毛振りは、八分程度の力で振っていたが、その方が乱れなくて観やすい。しかし、毛振りについては、去年の松緑の方がうまいなあ。(前にも書いたが、松緑の『鏡獅子』を是非観てみたい。)