十二月歌舞伎座 昼夜

kenboutei2009-12-23

昼の部
『操り三番叟』勘太郎の三番叟、獅童の翁、鶴松の千歳、松也の後見。『操り三番叟』は、前に染五郎で観ているが、それとはまた違う振付のようだった。振りの面白さは前回の方が良かったような気がする。勘太郎は身軽な動きが見所。鈴の段での鈴振りが軽快で楽しい。獅童の翁は、全体的に体重が前に掛かりすぎで、不安定。鶴松の千歳が歩き方はまだ軽いが、形となった時の身体はしっかりしていて、観ていて気持ち良かった。
翁にせよ後見にせよ、舞台正面で礼をするのは、どうやら観客席に対してだと解釈しているようで、これでは客席からも拍手が返ってくるのは当然だろう。
『野崎村』福助のお光、孝太郎のお染、橋之助の久松、彌十郎の久作。
福助のお光は、先年国立のを観たが、更にパワーアップ。もはや福助型といってもよい、新しいお光であり、そして、芝居全体も、「現代版」の野崎村である。(『新版歌祭文』改め、『新・新版歌祭文』とした方が良い。)
最初の出の時の髪の手入れにせよ、膾作りにせよ、福助は観客を沸かすことしか考えていないようだ。テンポアップさせた竹本に合わせてリズミカルに動くのは、決して「糸に乗った」丸本歌舞伎の動きではなく、古典芝居とは別次元の、現代人の動きに通じた、全く新しい演技である。動きだけでなく、例えば自分の眉に懐紙を当てて鏡を覗き、「恥ずかしい」と言う時、福助は「ハズカシー」と語尾を延ばして、客の笑いを取る。お光の行動の一つ一つが、コミカルで、喜劇を観ているようであった。
これに加えて、孝太郎のお染が、極端にシナを作って、色気を超えて卑猥な感じで、舞台を一層怪し気な空間にしている。こんなに猥らに見えるお染は初めて観た。上方風とのことだが、本当にそうなのかな。(ただ、久松とのクドキになると、逆にその色気の濃厚さが似合って、多少マシになるが。)
この福助のお光と孝太郎のお染のやりとりは、結構観客には受けていた。二人が受けようという芝居をしているから当然である。しかし、久松とのクドキ、久作の意見の件になると、客席はウソのように静かになる。それは決して舞台に惹き付けられてのことではなく、単につまらないからだ。要するに、役者が仕勝手のしやすい前半の芝居は、現代劇調にわかりやすく受けやすくすることはできるが、きっちり義太夫狂言の型にはまった場面になると、なかなかそれは難しいので、丸本通りの芝居となる。そうなると、それまでのわかりやすい表現とは落差があるため、途端に客席の熱は覚めていく。
この落差は、最初の出の福助や孝太郎のように、そもそも義太夫狂言をおかしな現代調でやろうとするから起きることなのだと思う。
丸本通りでしかできない場面で受けないことがわかると、アドリブを入れやすい場面になった時に、ますます表現が極端になる。久作のお灸の場面がそれで、久作を真ん中にして、お光と久松は、久作を必要以上に強くどつき回す始末である。もちろん、客席からは笑いが起こったことは言うまでもない。
こんな調子で、最後の土手の別れまで行くわけだが、その場その場で性根が一貫しない(そもそも性根という概念を持っていなようにも思える)福助のお光が、急に久松をあきらめて尼になってしまうことを、今日の観客にどれだけ納得させることができただろうか。少なくとも自分には、全く理解できなかった。
義太夫狂言の中でも割と分かりやすく親しみのある『野崎村』ですら、このように変質してしまうのだから、「さよなら歌舞伎座公演」での義太夫狂言の大作が意外に少ないことも、ある意味では仕方がないことなのだろう。
今日の『野崎村』は、古典歌舞伎が現代に続く過程で歪められていく様子を端的に教えてくれる、貴重なテキストだったのかもしれない。

『身替座禅』勘三郎の右京、三津五郎玉の井染五郎の太郎冠者。昼の部唯一、歌舞伎を観たなあと堪能できた。(それが『身替座禅』であったというのは、何だか複雑な気持ちだが。)
勘三郎は、花子の元から戻った時の、花道七三の所作が良かった。以前観た先代のビデオを思い出した。
三津五郎玉の井は、おそらく自分は初めて観ると思うが、とても品がある玉の井。後ろ向きとなって身体をひねり、両手を広げ、口を大きく開ける、玉の井お馴染みのポーズが、過度に誇張されず綺麗な型となっており、感心した。
二人の役者がそれぞれ自分の役をきっちりこなし、それが自ずと相乗効果となって舞台に表れた、楽しい『身替座禅』であった。
『大江戸りびんぐでっど』最近は観る前の情報をできるだけ遮断するようにしているのだが、楽日も近くなると、どうしても評判は聞こえてくる。
宮藤官九郎の書き下ろし『大江戸りびんぐでっど』も、観る前からゾンビで派遣を取り上げているということだけではなく、結構リアルなゾンビのメイクがあって、歌舞伎座の客層にはあまり受けていないというような話も、いつの間にか耳にしていた。
実際に今日観てみると、それほど酷いとは思わなかった。新作によくある凡作といった程度。
冒頭、染五郎亀蔵の着ぐるみのくさやの造形が見事で、くさやの開きが閉じるとイルカやカメレオンになるという破壊的な展開は、結構わくわくさせるものがあった。
しかし、その後のゾンビの話は、染五郎が主役なのか勘三郎が主役なのか自分にははっきりわからず、ゾンビと人間の主客が逆転する構造も、ありきたり感が漂い、クドカンはただゾンビを歌舞伎座に出したいがために演出しただけなのだなあ、という気がした。(筋書での作者の言葉を読むと更にそう感じる。)
外題はジョージ・A・ロメロ監督のゾンビ映画ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』からきているのだろうが、自分はゾンビ映画が大の苦手なので(実は一度もまともに観たことがない。)、グロテスクなゾンビが出るのは全く趣味に合わないし、障子から大勢のゾンビの腕が突き出てくるという、ゾンビ映画の典型的なシーンがあったりすると、どうしても拒絶反応が先にくる。
しかし、世の中にはクドカンに限らず、この手の映画が好きな人が沢山いて、映画雑誌『映画秘宝』を立ち読みすると、オドロオドロしい血まみれの死体やゾンビのオンパレードである。(だからこの雑誌は立ち読みだけで、買ったことがない。B級テイストは大好きなのだけど。)
そういうファンにとってのゾンビは、もはや怖い存在ではなく、愛すべきクリーチャーであり、だからこそ、ゾンビでドタバタ喜劇をやろうという発想にもなるのだろう。
クドカンからしてみると、歌舞伎座で歌舞伎役者にゾンビを演じてもらい、マイケル・ジャクソンの『スリラー』ばりのダンスを披露できただけでも、大満足なのではないだろうか。
しかし、それに共感できるのは、おそらくクドカンと同じゾンビ映画の偏愛者だけだろう。ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は、今ではカルト映画となっているが、この『大江戸りびんぐでっど』が、「カルト歌舞伎」になるかといったら、それは怪しいところだ。(「ゾンビ歌舞伎」とは言われるだろうが。)
「お客に親切、役者に親切、座元に親切」と「三親切」を説いだのは黙阿弥だが、自分の趣味に走ったクドカンの場合、客にも役者にも不親切だったのではないだろうか。(それでも今日は補助席も出て満員だったので、座元には親切で、「一親切、二不親切」かな。)
三津五郎勘三郎も、大勢のゾンビの中ではあまり目立たない。特に三津五郎は、こういう集団劇だと、身体の小ささが目立って不利。染五郎七之助勘太郎獅童など、世代的に若い役者の方が、ゾンビとの親和性は高いようだ。(プラス亀蔵。)
居残り佐平次井之上隆志が、結構面白かった。

・・・まあ、すぐに忘れ去られるであろう一過性の新作より、自分にとっては『野崎村』の方が、歌舞伎の将来を思うとよほど深刻な、今日の昼の部であった。
 
夜の部
『引窓』三津五郎の南与兵衛、橋之助の濡髪、扇雀のお早、右之助の母お幸。三津五郎初役の南与兵衛が良い。南方十次兵衛から商人与兵衛になった時の切り替えが見事。筋書によると又五郎から教わっていたとのこと。その点では菊五郎と同じなのだが、菊五郎のように世話に寄り過ぎて、商人が武士になったぎこちなさを過度に強調することなく、極めて自然にこの二つを演じ分けているのに感心した。その上で、商人としての与兵衛の芝居が実に味わい深かった。
扇雀のお早、ついさっきまで、クドカンの芝居で勘太郎相手に騎乗位で腰を振っていたとは思えない程、すっきりとしていた。昼夜続けて観ていると、その落差に戸惑ってしまうが、演じている方は、むしろ気が変わっていいのかもしれないな。
橋之助の濡髪は大きさがあったが、それほど面白味はない。右之助のお幸は、今後重宝に使われていくのだろう。
『雪傾城』芝翫じいさんと6人の孫の踊り。この前の矢車会での芝翫・愛子バージョンとはまた別の趣向。孫の面々は、勘太郎七之助、児太郎、国生、宗生、宜生。慶賀といえば慶賀。国・宗・宜の「三生」兄弟は、栄養をたっぷり与えられてスクスク育っているようだが、恵まれた家庭環境が、必ずしも芸事に役立つとは限らない。
それにしても、芝翫の動きには全く無駄というものがない。改めて感心。
『野田版鼠小僧』平成15年の初演以来の再演。前回のはもうあまり覚えていないので比較できないが、今日の舞台は、とても洗練されていて面白かった。
特に最後のお白州の場での勘三郎三津五郎の対決が白眉。ここで真実を明かすと不利になるのでウソを言おうかと葛藤する勘三郎の姿は、前の時も同じであったと思うが、最近では足利事件などもあり、より現代的な問題として我々に問い掛けるものがあった。
どの役者も生き生きとしており、野田演出を完全に自分のものにしているようで、安心して観ていられた。こっちはクドカンと違って、まさに「三親切」であった。(筋書での「演出家のことば」も、両者の経験の差が出ていて面白い。)
前は死んだ吉弥が演じていた與惣兵衛を、知らない役者がやっているなと思ったが、井之上隆志であった。
亀蔵は昼も夜も死人役。それがサマになっていて違和感がないのだから、変な役者だ。
惜しむらくは宜生のさん太が滑舌が悪く、勘三郎とのやり取りが聞き取りにくく、芝居の完成度をわずかに落としていた。(三田寛子は、子供に食べさせてるだけでなく、発声練習もさせた方が良い。)
 
・・・昼夜通しで観たが、案外疲れなかったのは、新作と舞踊中心で、義太夫狂言も軽い一幕だけだったからだろうが(特に昼はいつも以上に軽かったが)、たまにはずっしり重い丸本モノを観て、心地良い疲れを味わってみたい。(せめて「さよなら公演」のうちに。・・・もう無理?)