十二月・国立劇場

kenboutei2009-12-06

今月の国立劇場は、「珠玉の新歌舞伎」とのキャッチフレーズ。ホントか?
『頼朝の死』吉右衛門の頼家、富十郎の政子、歌昇の畠山重保、歌六大江広元芝雀の小周防。
前に梅玉の頼家でこの芝居を初めて観た時は、頼家のキャラクターに役者が合わない感じがしたのだが、今回も吉右衛門は立派過ぎて、少し違和感はあった。しかし、さすがに吉右衛門だけあって、台詞に説得力があり、最後に自分一人が頼朝の死の真相を知らされないのは、一個人より家を重んじるからか、と問いつめるのが、梅玉の時には感じなかった迫力と切実さがあり、それだからこそ、富十郎の尼の「家は末代、人は一世」という台詞が、生きてくるのであった。真山青果の詠うような台詞は、ともすると陶酔感だけで満足してしまうのだが、そこに込められた真の言葉の意味に、今回初めて気がつかされた。第一場の門前の場は、ほとんど寝ていたにもかかわらず、この最後の吉右衛門の台詞一言を聞いただけで、この芝居は満足できた。
『一休禅師』今回の公演は、新歌舞伎特集ということで、この一休さんも、元は坪内逍遥の作なのだが、実質的には、富十郎の思うように仕上げた新作舞踊である。禿で登場する愛娘・愛子と共演したいがための作品といっても良い。地獄太夫で付き合う魁春ごくろう。愛ちゃんは、それなりに愛らしく踊ってました。(途中で花道を一人で引っ込む演出も、観客サービスのつもりだろう。)
修禅寺物語吉右衛門初役の夜叉王。芝雀のかつら、高麗蔵のかえで、段四郎の春彦、錦之助の頼家。
これも『頼朝の死』同様、最後の吉右衛門の台詞が全て。吉右衛門は、決して詠わない。言葉の抑揚を抑え、感情を溜めに溜めて、最後にはやや張り上げるけれど、これも派手なものではない。あくまでリアル。それゆえに、娘の死に顔を写生するというトンデモ行為も、歌舞伎的時代掛かった台詞によってごまかす(=酔わせる)のではなく、理詰めの言葉で納得させているのである。
これまで自分は、青果や綺堂の新歌舞伎を面白いと思ったことは滅多にないのだが、それは、新歌舞伎独特の台詞の陶酔感に、今ひとつ酔いきれない部分があって、特に先年国立でやった『元禄忠臣蔵』などは、役者が声を張り上げる度に拍手喝采になるのが、嫌でたまらなかったのだが、実は、青果の台詞も綺堂の台詞も、単に酔わせるために書かれたものではない、ということが、吉右衛門の今日の二つの芝居における台詞術で、初めて気がついた次第である。吉右衛門の頼家、そして夜叉王を観ていると、別に高らかに詠わなくとも、客を納得させることはできるということが、よくわかるのであった。(まあ、事前に戯曲を読んだこともないので、多分に感覚的な受け止めだが。)
段四郎の春彦が、吉右衛門に伍して立派。芝雀と高麗蔵は、役者の格はともかく、ニンとしては逆だと思った。
錦之助の頼家は、『十二夜』を彷彿とさせるが、こういう役は嵌っている。(二つの違う芝居で同じキャラが出てくるのが、面白かった。)
第二場の、桂川の流れる舞台装置が、とても美しい。
 
特別席の良席が、まとまって空いていた、日曜日の国立劇場。いっそ歌舞伎座みたいに建て替え工事でもぶち上げて、客寄せしてみたらどうか。(事業仕分け委員が許さないか。)