八月納涼歌舞伎 三部

kenboutei2009-08-22

『お国と五平』平成10年に上演された時は見逃しており、今回ようやく観ることができた。(その前に、映画版の方を先に観ることとなったが。)
上演前に、筋書の演出者の言葉を読むと、酒鬼薔薇事件やアキバの通り魔事件などを挙げながら、谷崎戯曲の先見性を強調していて、ちょっと嫌な予感がしてしまったのだが、案の定、その予感はあたり、やたら友之丞の世間への恨みが前面に出るような芝居仕立になっていたのが、興醒めであった。
確かに谷崎の原作を改めて読み返してみると、自らの非力や不遇に対する世間への恨みの吐露があり、それが友之丞の行動原理の一つになっていることは違いないのだが、そもそも、この友之丞の身勝手な思考回路は、実は谷崎その人のものでもあり、屁理屈の中の理屈や、建前と本音の矛盾といった、谷崎独特の露悪的な屈折感が面白いのであって、単に「世の中が悪い」という行動原理だけで片付くものではない。演出者の言葉で紹介されていた「ようやく世間が谷崎に近づいた」という出演者の意見も、そういう見方よりはむしろ、谷崎の時代から現代の猟奇的事件の素地はあって、結局人間は今も昔もそれ程変わっているわけではない、という解釈の方が正しいような気がする。
また、友之丞がお国と五平の関係や自分との過去をいちいち指摘していくことによって、結局は敵討ちの偽善(ひいては世の中の偽善)を暴露するのが、谷崎原作の特徴であり(そういう組み立て自体は、古いといえば古いと思うが)、更に、そういう関係(殺された夫との関係も含む)の中で生きてきたお国という女性像への興味が、戯曲を読むとどんどん湧き出てくるのだが、今日の舞台では、そうした想像へは駆り立てられずに、全く平板なままに終わってしまった。
まあ、戯曲の言葉をそのまま今の舞台に出すだけでは、友之丞のロジックなどは、どうしても笑わずにはいられない部分もあって、実際、今日も芝居の後半では失笑に近い笑いが起きていた。ところどころに挿入される、意味ありげな琴の音色も、逆に笑いを増長するものでしかなかった。現代的な舞台にするなら、いっそのこと、不条理喜劇に仕立てた方が、谷崎の意図は伝わりやすいのかもしれない。
三津五郎の友之丞、扇雀のお国、勘太郎の五平。現代風にするなら、今日の扇雀はそのままでも通じる。
怪談乳房榎これも平成14年の時は観ておらず、今日が初見(たぶん)。角書きに「中村勘三郎四役早替りにて相勤め申し候」とあるように、主眼は勘三郎の早替わり。それだけ。四役目の園朝が一番良かった。(「新しい歌舞伎座ができた時に、あっちの世界に行ってないよう、元気でね」と話していた。)
序幕で小山三が茶屋の女で登場、福助から「あんたも一昨日で90歳の卒寿になったのに、若いわねえ」言われていたのが、めでたく嬉しい。
芝居自体は、とんとん拍子に話が進行して肩は凝らないのだが、その分薄味で、終わって何も残らない。
それが夏芝居と言われればそれまでだけど。
 
・・・今日は、一階東の桟敷で大向こうをかける客がいたのだが、「成駒屋!」と言わずに、「成駒!」で止まるので、いちいち苛ついた。(「屋」まで言ってくれよ。)