海老蔵の『石川五右衛門』

kenboutei2009-08-16

新橋演舞場の8月歌舞伎は、海老蔵で『石川五右衛門』。
樹林伸(何て読むんだ?)という漫画家を招聘しての新作とのこと。
序幕の前に発端があって、『忠臣蔵』の大序を真似て、釜茹で直前の海老蔵の五右衛門と役人の新蔵が、人形となって鎮座しているという、意表をついた演出。(幕開きの下座や柝の打ち方まで大序風。)さらに、実際に役者が動き出すと、後見付きの人形振りになっている。
新作ということで、現代劇風になるのかなと勝手に想像していたのだが、全く真逆のやり方。人形浄瑠璃でもないのに、義太夫狂言風にスタートしたことには、おそらくそれほど深い意味はなく、単に面白いからやりました、程度のことだと思うのだが、今では『忠臣蔵』でしかやらない演出や人形振りを取り上げる感覚そのものは、歌舞伎を現代的興味で楽しんでいるようなところがあって、そういう意味では自分にも似たような感覚があるので、すんなり受け入れられた。
続く序幕は、まるで映画風。雪の中、海老蔵と右近が、スローモーションの立ち回りをする。海老蔵の伊賀での修行を、背景の景色を秋から冬に替えることで、時間の経過を表すという演出も、一種のレビューのようで、とてもわかりやすい。
二幕目は、七之助の茶々と海老蔵五右衛門の色模様。これは三千歳直侍を意識したのか、長唄舞踊となっている。
三幕目の前半は、團十郎の秀吉が登場し、茶々の懐妊から、五右衛門の出生の秘密を探り出す、一種の謎解きドラマとなる。
そして後半は、山門へ突き進み「絶景かな」となり、大詰の大阪城天守閣へ移行し、立ち回りや「鯉つかみ」ならぬ「金の鯱つかみ」を存分に見せ、再び釜茹での場に戻り、最後は葛を背負って飛んでいく、という怒濤のスペクタクル。
てんこ盛りで手際良く、華やかな歌舞伎のエッセンスを披露するショー形式の舞台は、原作の漫画家よりも、監修に名を連ねている奈河彰輔の趣向なのではないかと思った。言い換えれば、猿之助歌舞伎の海老蔵版である。
漫画家の方は、五右衛門と秀吉・茶々の関係を新しく描き、そこから善と悪とが表裏一体であるという皮肉を言いたかったのだろうが、そんなことは、体育会系的海老蔵歌舞伎の前では、誰も気に留めずに終わってしまう。(善悪コインの話なら、同じエンターテインメントでも、バットマン映画『ダークナイト』の方がよっぽど深みがある。)
まあしかし、この舞台はそれでいいのではないだろうか。海老蔵一人の活躍を、ただ楽しめばいいのである。(他の役者も、一人一場で、自分の役が終わればさっさと帰ってしまえる、最近の新作歌舞伎の中では珍しい、チームとしての一体感がまるでない座組。父親の團十郎さえ、この舞台では海老蔵のための単なる一出演者に過ぎない。)
そういう舞台の中で、ただ一点、目を見張ったのは、海老蔵の六法である。
大詰の前に、海老蔵五右衛門は六法を踏んで引っ込むのだが、その時、左足一本で、トントントンと、後ろに下がる動作をする。勧進帳の弁慶の引っ込みでも時折見られる所作であるが、海老蔵のこの下がり方のスピードと力強さは、それは見事なものであった。過去にあんなに凄まじい勢い、エネルギーで、後ろに下がれる役者を見たことがない。この左足一本の後退こそ、荒事役者としての海老蔵の本質なのだと、改めて感じ入ったのである。
七之助の茶々は、奇麗だがそれだけ。そもそも、この場は海老蔵ともども、平凡でつまらない。
團十郎が出てくると、さすがに舞台が締まるというか、歌舞伎らしくなる。しかし、秀吉にはとても見えなかった。
山門での海老蔵五右衛門、「絶景かな」の台詞は、それまでの演技が継続しているせいか、怖すぎて、台詞の陶酔感は全くない。(怒鳴ればいいというものではない。)
ラストの宙乗り、秀吉への感謝の言葉は興醒め。「葛背負ったが、おかしいか」の一言だけで良かった。(たぶん、そう感じてしまったことが、原作意図と演出結果の齟齬だと思う。)
正味三時間。理屈抜きで歌舞伎(というか、海老蔵)を楽しむには手頃な時間だが、料金は手頃にあらず。