コクーン歌舞伎『桜姫』

kenboutei2009-07-12

先月の現代劇バージョンに引き続き、今月は歌舞伎バージョンの『桜姫』。
開幕前に購入したプログラムの中で、串田和美は、先月の現代劇についての某新聞劇評への不満を述べていた。そこで串田は、「歌舞伎の脚本はもともと役者に当てて書いているので、現代劇にするのは無理がある」といった考え方の劇評家に対して、それは自分達の運動の否定であるとし、「まだ(コクーン歌舞伎の)道は遠い」とボヤイてみせるのだが、実はボヤキ口調以上に、その劇評家に対する怒りが込められた文章であり、換言すれば、これまでのコクーン歌舞伎への強烈な自負も感じられる、過激な異議申し立てであった。まかり間違うと、その劇評家の職業生命をも奪いかねないものとも思える内容なのだが、串田はおそらく、「それはお互い様だ、こっちも命がけなのだ」と覚悟して書いたのだろう。
その串田の覚悟を先に読んでしまったからでもないのだが、今日の舞台は、これまでのコクーン歌舞伎の集大成ともいえる、串田和美渾身の傑作であると感じた。見事、という他はない。
今回の『桜姫』は、やはり先月との連続性ということに、大きな意味があり、そしてそれが成功の最大の要因でもある。
つまり、先月の長塚脚本が明らかにした、白菊丸(ジョゼ)を求めて苦悩する清玄(セルゲイ)が、まずよく描かれており、桜姫(マリア)を媒介とした清玄の物語としての骨格が明瞭であったこと。これは、勘三郎が今回あえて付け足したという、発端の白菊丸との身投げの場から、殺されて幽霊になるまで、清玄の役の性根としても一貫していて、とてもわかりやすく、自分は今回はじめて、清玄という人物が理解できたような気がするのであった。
加えて、桜姫が、単なる媒介者だけの存在ではなく、この物語世界を大きく広げる女性像になっていたこと。無垢でありながら大胆、周囲のことなどまるで考えず、一途で純粋な行動に走るお姫様。自分の前世が白菊丸であると知っても、それは彼女にとってはどうでも良く、ただひたすらに権助のことを思う少女。その無邪気さ一途さによって、清玄を一層苦悩させていることも気づかずにいる女。
自分は先月の大竹しのぶのマリアは全然理解できなかったのだが、今日、七之助の桜姫を観ることによって、逆にあの時のマリアの意味がわかってきたのかもしれない。(もう一度、先月の舞台を観直したくなった。)
そして、そういう桜姫の有り様を見事に表現していた、七之助が素晴らしい。
おっとりと鷹揚で、それでいて恋に盲目な桜姫は、七之助の若さと美しさにぴたりとマッチしていた。16、7歳という年齢の桜姫を演じるのに、もっとも相応しい、今の七之助だからこそ、という時分の花があった。何より台詞廻しに、女形だからといって決してなよなよしていない、しっかりとした力強さがあり、そこが今回の七之助の大きな成長であったと思う。
「岩淵庵室の場」で、黒い布をまとい、櫛・簪もつけていない髪をさらけだしてもなお美しいその七之助の佇まいに、自分は、玉三郎福助とは全く異なる、新たな桜姫役者を発見した気持ちになった。白い腕をさらけ出し、刺青を見せるところの恥じらいも、格別に良い。風鈴お姫の方は、まだ少し手に余るといった感じではあったが、再び姫に戻って、赤子を抱えて後ろ向きから上半身を捻って形になるラストまで、タイトル通り、この芝居は桜姫、すなわち七之助が主役の芝居であった。(そこが先月との大きな違いでもある。)
もう一点、特筆すべきは、最後の「権助住家の場」での、一連の演出。一度家から出た橋之助権助が、酔って戻って来た時、権助勘三郎に変わっている。その後再び橋之助に戻るのだが、ここで串田は、清玄と権助の合わせ鏡のような関係性を描こうとしている。それは、もちろん先月の現代劇版から引き継いだ流れであり、先月の芝居がなければ、こうした演出は生まれなかっただろう。(ただ、先月も思ったことなのだが、清玄と権助に、そういう強い関係性を持たせる意味は、自分には今ひとつ理解できないのだが。)
更に、串田は、桜姫が我が子を殺そうとする時に、清玄の幽霊に止めさせる。そして、結局赤ん坊は殺さずに、桜姫は我が子を胸に抱いたまま、再び吉田家の姫に戻るのである。
前回の福助のコクーン『桜姫』のラストはあまり覚えていないのだが、少なくとも通常の南北の歌舞伎では桜姫が赤子を殺すはずのところを、あえて変えたことは、割合に原作に忠実なコクーン歌舞伎にとっては、大きな事件のように思う。(通常の歌舞伎でも、あまりに残酷なので、初演時にあった殺しの場を省略するようなことは少なからずあるが、それとは意味が違う。)
これはやはり、先月の長塚脚本で描かれた、セルゲイの原罪に影響を受けたことによるのだと思うし、そしてそれを歌舞伎の中で表現しようとした、串田和美の強烈な意思の表れである。歌舞伎も現代に生きる演劇であり、そうであるならば、ラストの変更も必然なのだと、串田和美は今回、これまでのコクーン歌舞伎演出の立ち位置から、更に大きく踏み出し、より歌舞伎(戯曲)を自由に捉える創作者として自己主張しだしたように思える。
それが、あの七之助の赤子を抱えた美しい後ろ姿であり、同時に流れてくるアリアの美しい旋律に、自分は胸がぐっとなった。
昇天していく清玄と権助の前で、桜姫は子供を抱え、そこに美しい球体が光り輝く。
この時、桜姫はまさにマリアとなり、宙に浮かぶ清玄と権助は天使になった。
コクーン歌舞伎もまた、昇華した。これが串田の、先月の劇評に対する答えであり、ある意味、歌舞伎だとか、現代劇だとかの区別をも無化するような、そんなラストに、自分は拍手を送り続けた。
舞台は、先月に引き続き、奥にも観客席を設け、四方を取り囲むような設定。奥のスタンド席の下に、中村座の幕があり、そこから役者は出入りする。舞台の上には、破風が吊り下げられている。平舞台との関係でいうと、能舞台の四本柱がない状態(ということは、今の大相撲と同じ構図ということ)だが、破風はかなり高い位置にあるので、あまり強い印象は残さない。(コクーンだと、あまり舞台に近づけすぎると、上の階の客からは邪魔になるからだろう。ただ、その破風から桜吹雪や、雨が降ったり、ふわりと布が降りてきて、一瞬にして桜姫と権助の濡れ場の空間を作り出すなど、演出上の舞台装置としては、非常に有効に機能していた。)
時折入る、ツケが中途半端。
終演後の拍手は、先月とは異なり、徐々に盛り上がり、何度かカーテンコール。途中で勘三郎が遮り、「初日以来喋っていなかったが、今日は喋りたくなった。2ヶ月連続で芝居をやれるのは、凄いこと。ありがたい。」とお礼を言った後、「さらに、今日はココージオが来ている」と言って、観劇に来ていた古田新太を紹介していた。
芝居の途中、時折、下手の舞台袖から熱心に観ている串田和美も印象的であった。