シアター・コクーン『桜姫』

kenboutei2009-06-14

今月、来月と『桜姫』を現代劇と歌舞伎で演じるという、串田・勘三郎コクーン企画。
今月の現代劇版は、脚本が長塚圭史、桜姫を大竹しのぶが演じるということで、話題も集め、期待して足を運んだのだが、帰りの足取りは極めて重かった。
パンフレットを買って、ちょっと読むと、舞台を南米に設定し、桜姫がマリア、権助をゴンザレスと読み替えている。角書がついていて、「清玄阿闍梨改始於南米版(せいげんあじゃりあらためなおしなんべいばん)」。
観る前から戸惑ってしまったのだが、結局、始まってから終わるまで、ずっと戸惑いっぱなしであった。途中で何度か記憶を失いもした。
板の間状の舞台がせり出し、前方の座席は、それを囲むように配置されている。以前、NHKハイビジョンの舞台中継、野田秀樹が出演している芝居で、こんな舞台を観たことがある。さらに舞台両袖にもスタンド風の座席が用意してあり、これは上演途中で移動して、舞台後ろに配置され、通常の観客席と対峙する格好となる。
そういう、舞台と観客との関係性を考えさせる演出は、おそらく串田和美の発想なのだろうが、それと芝居の中味がシンクロしていたかというと、とても疑問だ。
舞台で展開する会話劇は、観念的で不条理で、観客は置き去りにされがちなのを、かろうじて古田新太のユーモラスな芝居や、道化的役割を与えられた大竹と笹野高史による墓守の会話でつなぎ止めているといった具合で、十字架を背負う清玄(セルゲイ)役の白井晃の苦悩は、観ているこちら側には、正直理解不能であった。
どうも桜姫よりも、かつて禁断の関係となった白菊丸(ジョゼという名前だそうだ)の幻影を求める清玄の方に話の主眼があったようで、最後は権助と合わせ鏡のような関係を確かめて終わるのだが、歌舞伎のように二役でやるならともかく、勘三郎白井晃では全然似てもいないし、舞台上の関わりでもあまり共通性を感じることはできないにもかかわらず、誰もがとても深刻で重々しく語り合っているのを聞いていると、どうしようもない袋小路の芝居に入り込んでしまった時の、何とも言えない気分に陥ったのであった。
南北の原作と長塚の脚本、串田の演出、勘三郎大竹しのぶらの演技という、極めて魅力ある組み合わせが、結局正しく化学反応せず、綺麗な結晶のかわりに、得体の知れない、異臭のする固体まじりの液体になってしまったという感じ。(もっともその謎の液体こそが魅力であるのかもしれないが。)
何だか書いてる方もわけがわからなくなっているのだが、そんな混沌とした気分は、パンフレットにも漂っていて、「わかんないけどやるしかない」とか「失敗してもいいもんねー」といった感じの言い訳や開き直り風のコメントが多く、むしろこっちの方が面白い。
観客の反応も正直なもので、異様に静かな雰囲気は終始変わらず、コクーン歌舞伎では当たり前のはずだった、カーテンコールもスタオベも起こらなかった。(一部の客が粘って拍手をしていたが、自然にフェイド・アウトしていった。)
長浦(イヴァ)役の秋山菜津子は、『純情きらり』に出ていた、戸田恵子の妹だった。パンフで確認すると、蜷川の『わが魂は輝く水なり』にも出ていたとのことだが、全然知らなかった。(巴御前の役だったのに。)
勘三郎のゴンザレスは、サングラスに髯面の派手なチンピラ・マフィア。しかし、喋ると勘三郎だった。
大竹しのぶのマリアは、十六歳と自分で言うところで客から笑いが起きるのを、自ら過剰に反応してみせるのだが、おそらくこれは最初から客の反応も想定した演出で、ここが現代劇の一種の照れなのだなあと思った。
古田新太が、大竹しのぶを毒殺しようとする場が、一番面白く、ほっと息をつけた。(多分、みんなそう思ったはず。)
まあ、来月に期待することにしよう。