『フロスト×ニクソン』

kenboutei2009-05-01

日比谷シャンテ。窓口でタイトルを言う時、「フロスト」でなく、「フロイト」と言ってしまった。ニクソン精神科医と対決してどうする。(それも面白そうだが。)映画の日で、一律1,000円。入り口の長蛇の列は、別の映画の人気。(スラムドック何とか)
ロン・ハワードが監督ということと、ニクソンにインタビューする話といった程度しか知らず、最初は『大統領の陰謀』と同じく、ジャーナリストがウォーターゲート事件を暴く展開を予想していたのだが、そうではなく、既に辞任したニクソンにインタビューし、最後まで謝罪をしなかった前大統領から、その言葉を引き出す話であった。
ガチンコのインタビューは、一度失敗したアメリカ再進出を図るイギリス人司会者・フロストが仕掛け、これを機に政界復帰の足掛かりにしたいニクソンがギャラの高さにも釣られて受ける形で始まるのだが、全4回のインタビューで、最初の3回は老練なニクソンの圧勝で終わり、フロストが最後の回のテーマであるウォーターゲート事件について、新証拠を突き出して追い詰めて行く。
劇中にも比喩として使われているが、まるでボクシングの試合のように、両陣営が火花を散らして相手を打ち負かそうとする、真剣勝負のインタビュー。たった一つのインタビューが、その後の人生を決めてしまう、その怖さをまざまざと見せつけられた。お互いに事前調査を徹底し、どのテーマにどれだけ時間をとるかなど、ルール作りの段階から、既に勝負が始まっている。インタビューとは、かくも命がけで過酷な仕事であったのか。これを観ると、日本のテレビや雑誌でのインタビューなど、とてもインタビューとは言えないことがよくわかる。(余談だが、かつてニュース番組で、オノ・ヨーコにインタビューした「キャスター」が、全く的外れな質問をするため、徹底的にオノ・ヨーコにすかされ、最後は色紙へのサインも拒否されていたのを思い出した。)
ウォーターゲートの新事実で、ニクソンから後悔の念を吐露させたフロスト。それでも「土下座をして謝れというなら、ノーだ!」と自尊心を保とうとするニクソンに、フロストは、ただ一言、「アメリカ国民には(何て言うのだ)?」と問い掛ける。
この質問に、ニクソンの目は宙を彷徨う。まるで親に嘘をついてバレた時の子供のように。
この映画で一番好きのなのは、この場面だ。
アメリカは、アメリカ人が自ら命がけで築いた国であり、憲法こそ、その象徴である。それを守ろうとしなかった大統領も同じアメリカ人であり、ニクソンは、同胞を裏切ったことを、イギリス人の司会者から聞かれることによって、アメリカ人として、この時はじめて悟ったように思えた。その同胞意識が、あの目に表れていた。
この映画を観ていると、アメリカという国の成り立ちがよくわかって、ある意味羨ましくもある。建国の昔から、今のオバマに至るまで、大統領は支持・不支持にかかわらず、「オレ達の大統領」であり、その行動の一挙一動を、自分たちのこととして捉えることができる国というのも、そうあるものではない。時々忘れがちになるが、アメリカが民主主義の実験国家であることを、改めて思い起こさせる映画であった。
そういう意味では、是非アメリカの映画館で観たかった。ニクソンがフロストにも盗聴工作を指示しようとするところや、インタビュー自体への反応など、客席は随分盛り上がったことだろう。(もっとも、この手の映画の英語は、さっぱり聴き取れないだろうが。)
フロストにマイケル・シーンニクソンは、フランク・ランジェラ。この映画、元は舞台劇で、この二人が同じ役で出演していたとのこと。言わば持ち役である。
ランジェラのニクソンは、容姿自体は決して本人に似ていないにもかかわらず(むしろ、フロスト陣営の一人のモノマネの方がうまい)、その存在感、佇まいでニクソンだと納得させるという、まるで吉右衛門のような役者っぷりであった。とことん嫌われているニクソンなのに、とても魅力的で、最後は好感すら覚えたのは、脚本だけでなく、ランジェラのうまさによるものが大きい。
パンフレットを見ると、ランジェラのフィルモグラフィーに、1979年の『ドラキュラ』があり、そういえば、自分はそのサントラを持っていて、あのジャケットのドラキュラが、今のニクソンだったのかと、ちょっと驚いた。(昔に比べると随分太っているが、ドラキュラのわりに優しそうな目の印象は、確かに同じである。)
フロストの恋人に、レベッカ・ホール。あまり活躍する場はなかったが、髪も顔も身体も全て長い女性は、案外好きだ。
最後のインタビューの前に、ニクソンは酔ってフロストに電話をする。だが、ニクソンはそのことを覚えていない。ブラックアウトは、先日の公園での丸裸だけでなく、電話したことも記憶になくなるものかと、改めて自戒。