正月新橋演舞場・夜の部

kenboutei2009-01-11

『七つ面』歌舞伎に興味を持ち出した頃、「歌舞伎十八番」というのは、どれも有名な演目で、全て『勧進帳』や『助六』と同じレベルのものだとばかり思っていたのだが、現在では演じられないものもあると知って、ちょっとがっかりした記憶がある。そして、かつて松緑が国立でそのいくつかを復活したと知って、是非観たかったと思ったものでもあった。
今の自分は、『蛇柳』や『解脱』などを含めほぼ廃絶された演目を復活するよりは、今に残る古典をきちんと継承していくことの方が遥かに重要だと思うようになったので、「歌舞伎十八番」に対する思い入れは相当薄れてしまったが、それでも、海老蔵成田屋としてこれらを復活したいと思う気持ちは理解できるし、果たしてどんなものになるのか、楽しみでもあった。
しかしながら、翁・猿・荒事の若衆・公家悪・関羽・般若・恵比寿の七つの面を、順番に付け替えて、その面に合わせた仕種の踊りをするだけの舞台は、何の驚きも新鮮味もなかった。それぞれの面での踊りの振りが全く面白くないのに加えて、海老蔵自体、その面に合わせた踊り振りができていない。猿の面での身体を掻く仕種など、とてもぎこちない。また、面の完成度が極めて低く、縁日のお面だってまだましだと思う程の出来だった。
これだったら、いっそのこと、まだ海老蔵では観た事のない『奴道成寺』で、三つ面の踊り分けをしてくれた方が(たとえ下手でも)まだ良かった。
菊五郎劇団の国立での復活狂言もそうだが、どこかで見たことのある歌舞伎の一場面の繋ぎ合わせと役者の引き出しに頼るだけの芝居は、本当の復活とは言えないはずだ。まあ、『七つ面』は、そもそものオリジナルの台本が失われているので、どうしたって新作になるのだが、それにしたって、芸も工夫もなさすぎる。
海老蔵が面を外して、その美しい白塗りの顔を見せてくれる瞬間が、一番良かったというのも、どうしたものか。
最後に付き合わされる澤瀉屋一門も、ちょっと気の毒。
ただ、お正月の鷹揚な気分もあってか、客席の反応は上々。今後、定着してしまうのではないかと、ちょっと危惧。(その場合は「海老蔵十八番」としてもらいたいものだが。)
『封印切』獅童澤瀉屋一門で近松ものをやるというのは、企画としてはあまりに大胆、ここは浅草歌舞伎か、と思ってしまった。
上方の匂いのほとんどしない役者ばかりで演じる大阪弁の芝居は、ところどころ学芸会風の感じもしないではなかったが、何とか破綻せずに最後まで行きついたので、まずは安堵。
獅童の忠兵衛は、まさに熱演といった感じだが、その分、上方風のはんなり感や忠兵衛という役の持つ色気には全く欠ける。首から下の白塗りが不徹底で、顔だけが白くなっていたのもグロテスクに見え、印象を悪くした。この忠兵衛では、井筒屋の連中が皆好きになるのは、なかなか理解しがたい。(猿弥の八右衛門の方が、よほど愛らしい。)
一方で、八右衛門との金のやりとりの会話は、あまりに軽卒で、こういうおバカなボンボンはいるかもしれない、という忠兵衛であった。獅童の役作りは、かなり現代的なものであり、この辺は、良い意味でも悪い意味でも、映画やドラマに数多く出演してきた経験の影響なのだと思った。
笑三郎の梅川は、黙っている時の佇まいが良い。「離れ座敷の場」で、暗闇で探っていた忠兵衛の手が触れて、思わず自分の手を引っ込め、恥じらって下を向いた時の美しさが印象に残る。笑三郎の顔は、斜め上からの角度が、一番美しく見える。
八右衛門役の猿弥が、器用さを発揮し、芝居を引っ張った。
門之助のおえんは、この座組では安定感があったが、やや力みすぎ。
寿猿の治右衛門が、台詞は覚束なかったが、さすがの存在感で、一人だけ、この芝居本来の役の持ち味。
阿波の大尽と梅川のやりとりや、肝入由兵衛の登場、その他細かい台詞などで、これまで自分が藤十郎などで観てきた『封印切』とは異なる演出だったのが、ちょっと興味深かった。
『弁天娘女男白浪』海老蔵の弁天小僧は、新之助時代の平成10年国立劇場以来なので、11年振り。あの時の舞台では、見顕し後の弁天小僧にシャープな凄みがあって、非常に感心し、音羽屋本家の菊之助もウカウカしていられないと思ったものだが、今日の海老蔵は、さらにパワーアップした見事なものであり、近年の弁天小僧としては、破格の面白さであった。
「浜松屋」の良さもさることながら、極楽寺屋根での「立腹」が最高だった。海老蔵は、立ち廻りでも単に様式的に足や腕を上げるのではなく、相手を屋根から蹴落とすべく足を上げ、相手を斬り殺すべく腕を上げている。その伸ばした足や腕のリアリティは、昼の部の「木の実」の権太の足のリアリティに通じるものがあった。それでいて、立ち廻りの捕り手を蹴落とし、屋根から下を覗いた時に決まる形は、見事な様式美となっている。
そして、大屋根に一人となり、仁王立ちして刀を腹にぐっと突き刺す「立腹」の凄み。これまでの『弁天娘』では、「勢揃い」の後のオマケ程度にしか思っていなかった場が、俄然、この日一番の見物となっていた。
海老蔵の弁天小僧は、様式性に優れた音羽屋系とは異なり、弁天小僧そのものの持つリアリティが、海老蔵自身の肉体と個性に繋がっているのが最大の魅力である。これは、弁天小僧に限らず、権太や忠信、知盛、そして弁慶に助六など他の役の時でも同様であり、海老蔵が今の若手役者の中で突出していると思える最大の要素である。時に海老蔵が演じる役は、伝承されてきた芸の型としては破調に見える時がある一方で、海老蔵が演じるからこそ、その役の存在感が初めてわかるといった思いを、度々経験するのである。
そういう意味で、この弁天小僧で唯一残念だったのが、肌脱ぎして見せる刺青が、それを描いた肌着であったこと。海老蔵の肉体美であるなら、肌に直接桜の刺青を描いてほしかった。まあ、実際は拵えの時間もないわけで、それが無理なリクエストであることは承知しているが。(何だか自分も倒錯してきたなあ。)
この芝居が格別良かったのは、海老蔵だけでなく、獅童の南郷、左團次の日本駄右衛門と、ニンに合った役者が揃ったことにもよる。獅童は前の忠兵衛と違って自信を持って演じており、海老蔵の弁天との息もぴったりであった。左團次の駄右衛門を観るのは、平成18年の新橋演舞場に続いて二度目だが、前よりもずっと良く、この役では当代随一だと思う。最後の「山門」もとても立派。
段治郎の忠信利平、春猿の赤星十三郎という布陣もバランス良かった。
右近が鳶頭で、キップの良い台詞廻しで感心した。今月の他の役が少し寂しかっただけに、溜飲が下がる思い。
新十郎が番頭役で抜擢、奮闘。