七月歌舞伎座・夜の部

kenboutei2008-07-13

7月の歌舞伎座は、一昨年同様、玉三郎海老蔵澤瀉屋若手での興行。(笑也が出ていないのも、前回と同様。)今日は夜の部を観る。何故か午後5時開演。
『夜叉ケ池』ほぼ同じ配役での再演。白雪姫が、春猿の百合との二役から笑三郎に変わった程度。前回は、鏡花世界に手も足も出なかった感のあった澤瀉屋チームが、今回は、長足の進歩を遂げていた。特に、どの役者の台詞廻しも違和感なく耳に入ってきたことは、称賛に値する。玉三郎しか表現しきれていなかった泉鏡花の世界に、彼らも入り込めるようになったことが、素晴らしい。
段治郎の晃の、「死ね、死ね、死ね、民のために汝死ね。」の台詞もしっかりしていて、良かった。
春猿の百合は、相変わらず台詞が鼻に抜けて聴き取りにくい部分があったが、佇まいが以前よりも大きくなった。
笑三郎の白雪姫は、案外しどころがない。百合と白雪姫は、役としては分けた方がしっくりくると思うのだが、演じる方からすると、二役の方がいいのかもしれない。
右近の学円はそれなりにうまいが、まだ若々しすぎる。
役者の進歩によって、泉鏡花の世界がきちんと表現されるようになったのはいいのだが、実を言うと、それで面白くなったかというと、全然面白くない。何故かというと、澤瀉屋若手の演技上達により、この戯曲のどうしようもない古さもまた、一層浮き彫りにされたからであると思う。
水没する村の中で、のたうちまわる村人の演技を観ながら、これが果たして現代に再演する意味があるのだろうかと、ふと考え込んでしまった。戯曲として読む分には、それほど古いとは感じないのだが、そうなると演出の問題なのかもしれないなあ。
高野聖高野聖』は、学生時代に「教養として」読んだ程度。もうストーリーも忘れてしまったが、主人公が森の中で蛭に襲われる描写があり、何だか薄気味悪いなあという印象だけが、今も残っている。
冒頭、暗闇が少しずつ明るくなると、舞台正面に笠を被った修行僧らしき姿が、うっすらと浮かび上がってくる。その姿はすぐに消え、次に、薄いスクリーンに覆われた舞台全面に、修行僧たちの読経の映像が大きく映し出される。やがて幕が開くと、舞台は飛騨越えの山道に転換されている。
この一連の演出が面白かった。
全体に、舞台装置、特殊効果はとても良くできていて、孤家の何とも寂しい雰囲気や、崖下の淵のセット、蛇や蝙蝠、猿などもどこか幻想的・神秘的で、泉鏡花の世界観、自分が小説として読んだ時の薄気味悪さの感覚も、舞台上で再現されていた。
ただし、特筆すべきはそれくらいであり、玉三郎の女も、海老蔵の宗朝も凡庸である。
まあそれでも玉三郎の方は、持ち前の演技力でその場を持たせているが、海老蔵の方は、全く何もない。ただ、大人しくそこにいるだけで、演技らしい演技の一つもない。高貴な僧としての演技作りだとしたら、それは勘違いだし、そもそもそんな演技は高貴な僧ではない。
二人で一階客席の通路を歩むのも、そうでもしないと、芝居の間が持たないからだろう。(通路の近くだったので、二人の美しさは十分堪能したけれど。)
そして、この一幕で最も致命的なのは、ラストの幕切れで、女の正体を、歌六の親仁に延々としゃべらせて終わってしまうことである。
玉三郎の女は出てこないし、海老蔵は棒立ちで聞いているだけ。もともとこの女に関して、推理劇の謎解き程のミステリーがあるわけではないのだから、歌六による種明しだけでは観客はだれるし、芝居としての盛り上がりにもかける。(それでも歌六は、メリハリの効いた台詞廻しで、奮闘していた。一昨年の『山吹』に続いて、ご苦労様でした。)
筋書きの玉三郎のインタビューでは、昭和29年に上演された今の藤十郎の時は、このラストで女を登場させていたという。玉三郎は、観客に、どんな女であったか想像してほしいと言っているのだが、自分は玉三郎にとって、良い観客ではなかったということだろうな。
 
幕間は一回だけだが、45分という長さ。外に出て、近所の干物屋の食堂で定食を食べて帰ってきても、まだ時間が余った。