『2001年宇宙の旅』

kenboutei2008-07-11

東劇に突然看板が掲げられていたので(その前は玉三郎シネマ歌舞伎だった。)、会社帰りに寄る。
作品公開40周年記念ということだが、ちょうど2001年になった時に、テアトル銀座で上映されて以来。あの時はたしかデジタルリマスターのニュー・プリントで画質も非常に綺麗だったが、今日のフィルムは既に劣化が進行していて、冒頭の真っ暗な画面が暫く続く場面にも、ノイズの光が明滅し、あやうく宇宙空間の星と錯覚しそうになった。2001年のフィルムをそのまま使い廻しているのかもしれない。唐突感を含め(キューブリック生誕80年とアーサー・C・クラーク追悼も掲げられていたが)、何となく安易な企画であったことは否めない。
それでもやっぱり観てしまうのが、この『2001年宇宙の旅』。
ただただ、その映像と音楽に身を浸した。自分にとっては、気分を高揚させると同時に、気持ちを穏やかにもしてくれる、精神安定剤のような映画でもある。全編にわたって、ナショナルジオグラフィックの美しい写真を眺めているような感じ。(映像の構図なんかも、あの雑誌の感覚に似ている。)
すでに古典となっており、様々に解釈されているような作品に、改めて言うべきものはないのだが、特に今日観て思ったのは、この映画が作られた頃の、人類に対する見方が、今とは全く違うなあ、ということである。
これはどちらかというと、クラークの思想に強く影響されているのだろうが、『2001年』の頃は、まだ人類は、進化の途上にあるという、ある意味前向きな考え方が前提にあったと思う。米ソ対立を背景に核戦争の脅威を身近にしていながらも、科学の進歩を信じるのと同時に、人類の進歩も信じていたのだと思う。
そういう意味では、1960年代は、まだ単純で牧歌的な世界だったのかもしれない。そして、『2001年宇宙の旅』のように、(モノリスやハルの反乱は別として)宇宙旅行も特別ではない未来を、かなり真面目に信じていたのである。
実際の2001年があっけなく通り過ぎ、今は誰も人類の進化など語ろうともしなくなった。それどころか、地球温暖化の元凶として、人類は地球のお荷物のような扱いである。
SFが持っていた力がなくなったというのもあるだろう。
そういう現代が、あまり好きになれないでいる。