六月歌舞伎座・昼の部 『新薄雪物語』

kenboutei2008-06-08

歌舞伎座、昼の部。芝翫富十郎幸四郎吉右衛門という大顔合わせの『新薄雪物語』。久しぶりに、「大歌舞伎」を堪能した気分。毎月、これくらいの舞台を観たいと思うのは、贅沢か。
序幕の「花見」、前半はさしたることはないが、富十郎の大膳の登場で、芝居全体のスケールが大きくなったように感じた。七三で編笠をとった時の、顔の大きさ。「咲いたわ、咲いたわ」の、迫力ある台詞。最後の引っ込みの偉容も、凄みがある。とにかく、引っ込んで行く富十郎の顔が、身体の半分くらいあるように思えるほど大きく見えた。富十郎は、仁木弾正の引っ込みより、今日の大膳の引っ込みの方が良かった。
芝雀の薄雪姫と錦之助の左衛門が、共に良い。一旦別れるところ、階段での上下の見つめ合いが特に美しかった。どちらも清楚で無垢、品良く演じており、この役に似合っている。特に錦之助は、序幕だけでなく、この芝居全体を通して非常に良く演じていた。錦之助襲名以降の最大のヒットだと思う。
段四郎の団九郎は、古風な台詞廻しは良かったが、細かな動きに精彩を欠いた。引っ込みの際の花道で、手拭いの扱いにかなり手間取っていた。
染五郎の妻平は、最後の立ち廻りが爽やか。水奴達の持つ傘の、限りなく黒に近い紫色が、安っぽくて品がない色だった。
桂三の道化が奮闘。
それにしてもこの序幕は、清水寺に満開の桜という華やかな舞台装置で、赤姫や立役二枚目、国崩し、道化等、歌舞伎の主要な役が次々に登場し、その上派手な立ち廻り(ちょっと長過ぎるが)もあって、見取りで一幕だけ演じても十分楽しめると思った。『新薄雪物語』というと、どうしても「合腹」のイメージが強いため、「花見」だけでは物足りないということかもしれないが、一時間程度で歌舞伎のエッセンスがコンパクトにまとまっている一場としては、結構有効だと思う。(もっとも、ある程度の役者が揃わないと難しいだろうが。)
「詮議」も面白い。何と言っても、花道から、吉右衛門の伊賀守、富十郎の民部、彦三郎の大学、そして幸四郎の兵衛が、揃って出て来るところで、観客としてはもう嬉しくなってしまった。昔、今は亡き志寿太夫の百歳を祝う興行で、幹部役者勢揃いの『青海波』を出した時、当時の勘九郎の手招きで花道揚幕から羽左衛門雀右衛門幸四郎吉右衛門菊五郎がぞろぞろと出てきた時の興奮を、つい思い出してしまった。
富十郎が序幕の国崩しから、真逆の捌き役。大きさからいうと大膳の方に分があるが、この民部もそれなりに立派。横で応対する彦三郎が、富十郎に伍して頑張っていたのも良かった。決して位負けしていなかったと思う。
そして、幸四郎吉右衛門の真っ向勝負。花道七三での、膝詰め協議は見ものであった。最近は二人の共演もあまり騒がれなくなったが、あの『寺子屋』『金閣寺』よりも、今日の舞台の方が、充実度は増している。
いよいよ「合腹」。この場は圧巻。歌舞伎役者の不思議な芸の威力に、理屈を超越して圧倒された。
まず素晴らしかったのは、芝翫の梅の方と吉右衛門の伊賀守が、「膝を並べて座したるは、ただ木像の如くなり」のところで、正面に正座する様子。まさに木像のように形が決まって、葵太夫の竹本に乗って、実に丸本歌舞伎らしい、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
そして、眼目の三人笑い。まず芝翫が、幸四郎に命じられて無理に笑うのだが、少しずつ口を歪めて笑おうとする時、芝翫の顔が、まるでクローズアップのように、大きく見えてきたのである。もちろん、望遠レンズもオペラグラスも使わず、素のまま観ていたので、そんなことは起こりえないのだが、そんな錯覚を感じさせたのは、芝翫がこの一瞬に全神経を傾け、それが自分の視線を呼び込み、釘付けにしたためであろう。本当に自分でも驚いたのだが、この感覚が芸の力であると思った。
続いて、幸四郎吉右衛門と三人笑いに入る。芝翫の古怪な笑い、幸四郎のリアルで心理的な笑い、そして吉右衛門のスケールの大きな(といっても大笑いではない)、ハラのある笑いと、三者三様、この違いがまた面白かった。義太夫狂言という観点からすると、幸四郎の笑いはその規格から逸脱しているようにも思えるが、しかし、これはこれで、幸四郎独自の兵衛への解釈としてよくわかるし、他の二人との対比としても、あってよい笑いであった。(三人が三人とも同じ風だと、かえってつまらなくなる。)
とはいえ、その中でも、吉右衛門の緊迫度が高く、他を圧する程痛切な笑いが、胸に豪速球のごとくぐさりと突き刺さり、今もその声が耳から離れないでいるのであった。
やはりこの三人笑いが、今日の最大の見ものであり、これを観ずして、歌舞伎の何を観るんだといった感じである。
・・・本当に、良いものを見せてもらいました。(やはり、毎月この水準は、無理か。)

福助染五郎『俄獅子』が追い出し。