五月国立・文楽公演 第二部

kenboutei2008-05-22

『心中宵庚申』特に今日は、「上田村の段」の話の面白さに心惹かれた。
嫁は夫の留守中に折り合いの悪い姑に家を追い出され、実家に戻る。そこに事情を知らなかった夫がたまたま立ち寄り、最後は連れ帰る・・・。離婚にまつわる家庭劇は、現代でも通じる普遍的なテーマであり、そういう意味でこの近松作品は、古いようで新しい。
近松は、登場人物の微妙な心理を、それぞれの台詞の中でうまく表現している。特に姑にされた仕打ちを、嫁は夫も承知の上であると思っていることについて、夫の方が、二年も連れ添っていて自分の心もわからないのか、という意味の台詞を嫁に対して言うところは、夫婦間の信頼関係の微妙なズレを、近松の冷徹な観察眼によって、見事に浮き彫りにしている。
病気の父親が、これで三度目になる娘の離縁について、家の体面を気にしながらも、優しく受け入れる台詞も、実にうまいものだ。
そして、何よりも感心したのは、ただ事実だけを追っていくと、実に単純でおよそドラマ性のない離縁話を、まるで推理劇のような構成にすることで、全く飽きさせない一幕劇に仕上げている、近松の鮮やかな筆捌きである。
舞台は嫁の実家で、姉が家の中で雑事をしているところに、離縁された嫁が登場。姉妹の会話を通じて、これが三度目の離縁であることや、現在父親が病気で寝ていることなどが徐々に明らかにされていく。さらに、近所の嫌みな男が離婚話を増幅させた後、病気の父親がそうした会話で事情を察し、戻った嫁に言葉をかける。
続いて、離縁を知らぬ夫が土産物を携えて暢気に立ち寄り、姉や父親との会話で事情を悟り、夫が自害しようとするなど一波乱あったあと、お互いに和解し、夫婦は一緒に帰って行く。
登場人物の出し入れ、台詞の応酬を重ねることによって、観客の興味を常に引き寄せていく。一幕一場の室内劇の基本を観ているようでもあり、また現代のホームドラマに比べても、決してひけをとらない、優れた構成である。
近松が、戯曲の文学性で今も国文学の中で一定の位置を占めていると同時に、現代演劇でも多く取り上げられているその秘密が、この近松最後の作品に凝縮されているように思った。
そして、今日の舞台でそのような近松の奥深さを思わせるほど、その世界・空間をうまく語りきった、住大夫の、さすがの力量ということでもあろう。(住大夫は近松が嫌いだと言ってるんだけどね。)
嫁の千代を遣う簑助が絶品。特に、ラストで、父親に「灰になっても帰るな」と言われ、実家の戸口から出たところの、天を仰いでの嘆き、身体の傾け具合は、目に焼き付き、心に沁み入った。
「八百屋の段」と道行は、「上田村」に比べると、話の進み具合に面白味はない。
 
『狐と笛吹き』北條秀司の新作。先年、歌舞伎座でも上演されたが、全然記憶に残っていない。今日実際に観ても、結局歌舞伎の舞台は思い出せずじまいだったが、ストーリーも多少違いがあるようだ。
前半の春、夏の場は全くつまらなく、早く終わってくれと毒づいていたのだが、秋の場で、女が男に自分は狐であると告白したところから、俄然面白くなった。
もっともその面白さは、義太夫人形浄瑠璃としての面白さではなく、要するに北條秀司が民話に託して問い掛けた、「セックス」に関することである。
女は狐であり、男と一度でも交わるとお互いに死ぬと言う。従って男女は清い関係を誓うが、仕事でしくじった男は泥酔して帰宅し、自暴自棄になって、女を犯そうとする。その場は何とか逃れ、見かねた狐の親が連れ戻そうとするが、女狐は男の元を離れ難く、結局男と心中覚悟の道行きをする。(最後は一度交わって死ぬのだろう。)
舞台上はメルヘンチックに美しい情景が演出されているが、話の筋をあえて身も蓋もなく言えば、そういうことだ。
『鶴の恩返し』などにも見られる異種混交譚を、ストレートに表現していることが何より意外で面白く、プラトニック・ラブやエイズなどの現代的テーマが頭をよぎると同時に、例えば、この時代に(設定は王朝時代のようだ。)コンドームがあれば、どうだっただろうかとか、半分舞台そっちのけで、妄想の世界に没入してしまいました。
何も文楽でこんなことしなくてもよかろうとも思ったが、人形だからやりやすかったというのもあるのだろう。(酔った男の強姦シーンは案外リアル。観客は少し引き気味でもあった。)
文楽の新作を観るのはこれが初めての経験。(何しろ、東京では殆ど上演されない。)床は若手太夫が中心であったが、それほど違和感がなく舞台にもフィットしていたのは、結局この作品が義太夫節とは全く遠いところにある、現代(といっても、戦後直後の昭和の匂いプンプンだが。)の舞台芸術の一つであったからだろう。

・・・それにしても、『心中宵庚申』と『狐と笛吹き』を続けて観ると、人形浄瑠璃を作るにあたっての、近松の偉大さを痛感せざるを得ない。何気ない、どこにでもある日常のスケッチを、巧みな筋立てと美しい詞章で、優れたドラマに仕上げる近松と、民話や観念的なコンセプト、派手な演出に頼らなければ、どうしても間が持たない感じのする新作文楽
まあこれは、古典演劇の新作化にはついてまわることでもあり、歌舞伎においても同じであるが。