四月歌舞伎座・昼夜通し 仁左衛門の弁慶 

kenboutei2008-04-03

四月の歌舞伎座公演。昼夜通し。今月は仁左衛門玉三郎勘三郎と人気役者揃い踏みであったが、一日通して印象に残ったのは、仁左衛門の弁慶だけだった。
昼の部
『十種香』そんなに寝不足ではなかったのだが、結構気を失っていた。時蔵の八重垣姫を観るのは国立以来2回目。前より薄味に感じたのは、こっちが眠たかったせいか。柱巻きの見得も、やや棒立ちであっけない感じがした。
橋之助初役の勝頼は、思った以上に色気があって、良かった。ただ、髷の切り口が真ん丸で、それが前髪の上に乗っかったようになっており、正面から見ると、二つの大小の丸がくっついた、瓢箪か雪だるま、或いは鏡餅の形のようで、ちょっとおかしかった。
秀太郎の濡衣は、世話っぽい。
一番良かったのは、我當の謙信。台詞廻しが朗々として本格。
次に良かったのは、團蔵の原小文治。顔も衣装も立派。最近の脇の役者にはない大きさ。
床の喜太夫、松也は、今一つだった。
『熊野』玉三郎の、お能シリーズ(?)の第何弾目か。あんまり面白くなかったなあ。元の能の『熊野』を知っていれば、また感想は違ったのかもしれないが。玉三郎の熊野が宗盛の前で見せる舞いそのものが、ちょっと退屈だった。
一方で、宗盛役の仁左衛門には感心した。母親を看病したいという熊野の願いを、あっさり却下する非情さを、決して冷徹に見せず、ある種のイノセントな君主の香りを漂わせて演じていたのが、良かった。また、仁左衛門が出ることで、この舞台が歌舞伎の範疇であることを思い出させてくれ、どこか安心感を与えてくれた。(これは、他の玉三郎お能シリーズでも、『船弁慶』での勘三郎の舟長、『紅葉狩』での勘太郎の山神が出てきた時に、ほっとしたのと同じである。要するに、自分は「歌舞伎」を観たいということなのかなあ。)
三島由紀夫作で歌右衛門が演じた『熊野』は、どんな感じだったのだろうか。
『刺青奇偶』前に初めて観た時は、かなり感動したように覚えているが、今回は、それほどでもなかった。仁左衛門の親分が格好良かった。
夜の部
『将軍江戸を去る』三津五郎徳川慶喜橋之助の山岡鉄太郎。ただ時間が過ぎて行った。巳之助がようやく役者らしくなってきた。
勧進帳仁左衛門の弁慶、勘三郎の富樫、玉三郎義経
初めて観る、仁左衛門の弁慶。久しぶりに、胸がすくような、気持ちの良い弁慶。これまで自分が生の舞台で観てきた弁慶の中でも、最高の部類に入る。(それほど多くの役者では観ていないが。)
口跡の良さは仁左衛門なら当然であるが、今日の弁慶で何より良かったのは、台詞の間である。富樫が「九字の真言」を問うところで、勘三郎が声を大きく張り上げたせいか、観客から余計な拍手が起こり(これは勘三郎も観客も悪いと思う)、芝居の緊張感が崩れかけたのだが、仁左衛門は、勘三郎の言葉をやや身体を後ろに傾け、ぐっと受け止めるような形をとり、そして拍手が静まるのを待って、「九字の真言とは」と語り出す。その間合いの絶妙さ。富樫とのやりとりでは他にも、勘三郎のやや破調な攻撃に対して、技巧的に優れた対応をしていた。
また、この弁慶は、非常に理知的な弁慶であった。問答における台詞は極めてわかりやすく、その意味まで観客に伝わってくる。早口でもなくゆっくりでもなく、ベストな台詞術。理路整然と話す弁慶に、富樫もやり込められるという構図。決して迫力で押すのではなく、あくまで山伏問答での解答の中で、富樫を納得させていた。
そして形の良さも、仁左衛門弁慶の特徴であった。最初の出で片膝をついて義経の言葉を聴くのも良かったし、祝詞のところで、舞台正面で数珠を持って現れるところも素敵であった。見得の迫力は、團十郎吉右衛門ほどではなかったが、詰め寄りの動きなどは切れ味があって良い。金剛杖の持ち手は左右逆。やはり自分もこの持ち方の方が、納得がいく。延年の舞はあっさりした感じであったが、きっぱりとしており、最後の引っ込みは、美しさがあった。
弁慶役者としては、仁左衛門は少しスリムすぎるかなとも思っていたのだが、やや鉤鼻で頬の削ぎ落ち具合は、今の『勧進帳』を創始した七代目團十郎の錦絵を観ているようでもあり、そういう意味では、自分の思う理想的な弁慶に一番近いものであったような気がする。
勘三郎の富樫は、張り上げて謳う、最近では富十郎のそれに近い。(羽左衛門型?) 先述したが、その絶叫調が、観客の余計な拍手を招いてしまうのが、不幸といえば不幸。それでもさすがなのは、じっとしている時も、しっかり相手の仁左衛門を受けて息を詰めていること。むしろ動かない時の方が、優れた芝居をしているし、形も綺麗であった。これは義経玉三郎にもいえ、だからこそ、この三人は絵になるのだと思った。
その玉三郎義経、自分は初見で興味深かった。素晴らしいと思ったのは、下手で笠を被って座っている形の良さ。玉三郎は、あまり深く笠を被らず、顔もそれほど大きく下に傾けていない。その結果、笠から見える顔の部分が少し大きくなり、鼻までは見えないが、それより下半分が、一階の正面席からは、はっきりと見ることができた。その口元周辺の白さが実に美しく、変な喩えだが、覆面レスラーの覆面から見える口元、もしくはライダーマンの口元のようで、要するに格好良かったのである。
台詞は、大きく甲高く、どこか稚拙な感じであったのだが、これは筋書で本人が能の子方を意識すると言っていたのと関係しているのかもしれない。自分としては、その台詞廻しでは、義経としての気品が損なわれるような気がしてならなかった。
「判官御手」は、差し出す右手以上に、身体全体の動かし方、身体の開き方が美しかった。
当代の人気役者を揃えたこの『勧進帳』は、三人三様で、個々は悪くなかったが、アンサンブルとしてはそれほど面白味はなかった。ただ、その中でも仁左衛門の弁慶が珠玉の名品で、この弁慶だけは、どの役者と組んでも優れたものになるだろうと、確信した次第。
『浮かれ心中』これも以前納涼歌舞伎で初めて観た時は、抱腹絶倒したのだが、二回目で早くも食傷気味の感じがした。前回とは違う配役の、三津五郎時蔵に味わいがあった。
手鎖をされて花道から出てきた時の、勘三郎の表情が、何とも面白かった。