『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』残り半分

kenboutei2008-03-16

先週に引き続き、下北沢のトリウッドで、『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』。
『人と芸の巻・下』昭和63年、平成元年頃の舞台と、その合間に催されていた「芸談をきく会」での話が中心。舞台は「堀川波の鼓」「荒川の佐吉」「新口村」「菊畑」など。
先週の上巻、中巻に比べても、より衰えを感じさせる仁左衛門。特に、自分の特集をしたテレビ番組を、ブラウン管の真ん前で食い入るように見つめていても、おそらくは自らのアップ姿も認識できていない様子は、実に弱々しい印象を与えた。そして、その数日後に、仁左衛門脳梗塞で倒れたのであった。
幸い、短期間で回復し、舞台へも復帰、京都の顔見世には例年通り出演できたのだが、これを境に、仁左衛門の衰えは加速していったようであった。
それでも、舞台での姿は立派であり、また、家で椅子に座っている時には、ほとんど生気のないように見えるにもかかわらず、客を迎え、芸談をしだすと、従前と同じように生き生きとした姿になるから、やはり「歌舞伎役者」である。
「吉田屋」の伊左衛門について、由縁の月からの所作や手順を延々と語っていくところは、実際はそこに「芸をきく会」のメンバーがいるのだが、カメラが仁左衛門一人にのみ向けられているせいか、まるで仁左衛門のモノローグ、一人話芸のような、面白さと迫力と、そして哀愁があり、感動的。目の見えない仁左衛門にとっては、芸談で自ら演じた役を話すのは、まさに自らの生きてきた足跡の確認作業であり、何人も立ち入れない崇高かつ孤独な世界に思えたのであった。
そして最後に、「歳をとると芸がリアルになる。」と呟き、それが字幕となって、この巻は終わる。
その他、「仁左衛門歌舞伎」の頃の話で、静かな涙を流す場面も素敵だった。
夫人を初め、子供達へのインタビューも、みな仁左衛門を愛している暖かな家族の絆が感じられた。
ところで、秀太郎が自作したという舞台『そうでしょうか』とは、どんな芝居だったのでしょうか。
『孫右衛門の巻』平成元年歌舞伎座での「新口村」での孫右衛門と、その稽古。稽古では、「封印切」の指導も。最近の歌舞伎関係の番組でもよく見られる、歌舞伎座ロビーでの稽古風景。売店の張り紙などに当時の雰囲気が漂う。梅川役の雀右衛門がポマード(?)べったりのオールバックで、往年のタモリのようだったので、つい笑ってしまった。我童、吉五郎の他、京蔵、段之などの姿もあった。
舞台稽古では、目の見えない仁左衛門が、花道を歩き、距離感を計る。花道付け際には目印の赤いランプ。我當や夫人も付き添っての必死の稽古。
そして初日。仁左衛門は、無事に花道を一人で歩き切る。目が見えないなどとは全く思わせない、見事な孫右衛門の花道の出であった。(翌日は花道から落ちたそうで、その後に孫右衛門を演じる時は上手から出るようになったというから、この映像は、もしかしたら仁左衛門にとって最後の、花道からの孫右衛門の出であったのかもしれない。)
舞台稽古の時の幕切れで、懐から経文を取り出していたが、初日の舞台では出さなかった。それにしても、目が見えないのに、きちんと雪の積もった立ち木のところまで歩いていき、そこで見事に決まるのには、つくづく感心した。
舞台を撮影する羽田監督は、長廻しで撮っているはずの映像のところどころにわずかな中断を入れ、単調になりがちな舞台撮影にリズムをつける。これは他の舞台シーンにも共通する、ドキュメンタリー監督ならではの編集技術であると思った。
『登仙の巻』平成3年から平成5年の最後の舞台まで、まさに仁左衛門の最晩年を追う。
最も印象的だったのは、明治座再開場記念の時の「三番叟」の翁。稽古のため明治座に入るところが、痛々しい。風邪が直り切らず、マスク姿で周囲に支えられ車椅子に乗せられる仁左衛門。しかしそれでも、稽古が始まると、背筋も伸び、とても先ほどまでの老人には思えないのはさすがである。実際の舞台では、座ったまま、扇を開き切ることもできなかったのは、悲しかったが。(後見に我當秀太郎。) 一方、口上では、自分が明治生まれであることを紹介し、笑いをとるなど、結構元気であった。
「鬼一法眼」の「奥庭」や最後の「八陣守護城」の映像は、当時ようやく歌舞伎に興味を持ち出した自分にとっても記憶に残っている。
そして仁左衛門は、嵯峨の自宅で、静かに亡くなった。
羽田澄子のカメラは、特にその死については何も撮影せず、単に字幕で事実を伝え、あとは夫人と我當家族による墓参りを淡々と撮影することで、この映画を締めくくった。
最後まで静謐で清らかな、品格あるドキュメンタリー映画であった。仁左衛門その人のように。
・・・この巻だったか「人と芸」の方だったか、仁左衛門が夢の中で、四段目で判官と由良助の二役をやることになり、「判官が切腹してすぐ由良助で出なきゃならない」とあせったところで目が覚めた、というエピソードが、微笑ましかった。
 
二日間で合計10時間41分。これでようやく観終わったわけだが、この映画、本数としては1本と数えるべきなのか、各巻で6本と数えるべきか、どっちだろう。どうでもいいことだが、「今年映画を○本観た」という時、どうすべきか、ちょっと迷う。(トリウッドは、「超長編映画」と紹介してるから、1本なのかな。)
前回も書いたが、トリウッドは、前の人の頭が邪魔で、とにかくストレスとなる。最後列でも最前列の人の頭でスクリーンが遮られてしまうのには驚いた。(といっても5列しかなかったが。)
ネットでいろいろ取り上げられていたので、当日券も入手が厳しいかと思っていたが、それほどでもなかった。観終わって退場する時、次の回を待つ客層に結構若者が多かったが、彼らは十三代目仁左衛門に、どんな印象を持っただろうか。