『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』

kenboutei2008-03-08

下北沢のトリウッドという映画館で、羽田澄子監督のドキュメント映画『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』を観る。
といっても、全部で10時間以上の超長編映画なので、今日は、『若鮎の巻』と『人と芸の巻』の上・中の三本のみ。それでも、12時半から午後6時過ぎまでの長丁場。まあ、各巻は100分程度で、思ったよりは疲れなかったが。何しろ、十三代目仁左衛門を観ている分には、全く飽きることはないのだ。
確か平成4年に、岩波ホールで上映された時、ちょうど歌舞伎を観始めの頃で、そのチラシをベットの横の壁に貼付けていた記憶があるが、結局時間が取れずに観るのは断念して以来、自分にとってはいつか観てみたい映画の筆頭になっていた。おそらく、あの頃よりも、少しは歌舞伎に詳しくなった今の方が、タイミングとしては良かったと思う。
『若鮎の巻』上方の若手役者による自主公演「若鮎の会」に演技指導する、仁左衛門を追う。演目は、『一条大蔵譚」と「吃又」で、今の亀鶴嵐徳也が大蔵卿、上村吉弥がおとくで、指導を受けている。特に、大蔵卿の台詞廻しのまずさに、根気よく教える姿が、面白い。「とっとと、いなしゃませ」の台詞が、何度言わせても「いらっしゃいませ」に聞こえると、直させるところは、会場からも笑いが出ていたが、仁左衛門は、誠実な人柄から滲み出て来る独特の洒落っ気というかユーモア感があって、観ている者を、ほんわかとさせるのが、何とも素敵であった。
稽古をつける仁左衛門が、素の着物姿のまま、ただ手を動かすだけで、たちまち大蔵卿その人に見えてしまう、この不思議。袖の中に手を隠すだけで、高貴な公家の雰囲気が、ぱっと匂い立つ。芸の年輪というものを、まざまざと感じさせる映像シーンの連続に、興味は尽きなかった。
仁左衛門の側で稽古の様子を見つめる、愛之助の姿も。
『人と芸の巻・上』昭和62年の舞台や稽古の様子と芸談が中心。舞台は、大阪南座の『沼津』、国立劇場『紙子仕立両面鑑』、京都南座での『対面』。
国立では、延若や小伝次の姿もあった。普通の着物姿での舞台稽古の様子が面白い。
「対面」の方では、仁左衛門は工藤を演じているが、その台詞廻しが実に立派で、一つ一つが丁寧。驚いたことに、これは、この前観た富十郎の工藤の印象と全く同じであった。この場での工藤から五郎への台詞の渡し方について、抑揚の高低を調整して、相手が次に言いやすくしてやる、という芸談が興味深かった。そこから思い返すと、富十郎の工藤も、そうした工夫を受け継いだ台詞術だったのだなあ。南座でのこの舞台で五郎を勤めたのが、その富十郎だったのである。
京都南座顔見世への連続出場により、松竹永山会長に表彰された時の、感慨無量の表情と感謝一杯の挨拶も、胸に沁みた。
『人と芸の巻・中』南座に続いての、歌舞伎座での『対面』、そして『菅原伝授手習鑑』での菅丞相。仁左衛門の菅丞相、特に『道明寺』は、もはや至芸中の至芸として伝説化されているが、その最後に勤めた舞台を、裏側も含めてこうしてフィルムに残されたことの幸福を感じずにはいられない。
感心したのは、最後の引っ込み。七三で袖を巻き上げながら片手を上げる見得の部分は、ちょうど腕が被さって、顔の表情が見えなかったのが残念だが、その後に、静かに揚幕まで歩く場面の表情は、意外なほど淡々としていた。
最近観た当代仁左衛門の時は、実際に涙を流しつつ引っ込んでいたので、この枯淡ともいえる菅丞相は、晩年の仁左衛門の心境の表れなのだろうか。その後の芸談でも、今度の菅丞相は、できるだけ動きを抑制したということを言っていた。
舞台の合間の日常も中巻では随分撮影されており、映画ファンとしては、こちらの方が面白いかもしれない。地下鉄に乗り、長い階段を、自力でゆっくりと上がっていく姿を後ろから撮影している長廻しのショットは、これが羽田監督によるドキュメンタリー映画であったことを思い起こさせた。
ほとんど見えない目で、できたばかりの自身の写真集を、夫人に聞きながら一生懸命眺めて有り難がる場面や、お盆の時の一家総出の行事に見せる深い信仰心に、観ている方も、頭が下がる思いであった。
祇園の茶屋で遊ぶ場面に、秀太郎や進之助の顔も。片岡家の血筋である家橘も同席していたのが興味深い。秀太郎による「卅三間堂」の木遣り音頭(たぶん)に、三味線をつける仁左衛門の姿が、まさに粋。
とにかく、先代の仁左衛門の舞台に接することのなかった自分にとっては、各巻それぞれ、たっぷりと仁左衛門に浸れる、贅沢なひとときであった。あと半分も楽しみである。
各巻上映の冒頭に、当代仁左衛門からのビデオレターが入る。楽屋で撮影したもののようだが、本当に父親を尊敬している姿が伝わってきて、父親の生き方と重なるようで、これもなかなか良い。
・・・下北沢のトリウッドは、傾斜が全くないため、前に客が座ると、観ずらいことこの上ないが、せっかく貴重な映画を上映してくれるのだから、仕方がないか。
幕間に羽田監督の挨拶あり。「仁左衛門芸談をきく会」というのが、羨ましく思った。