納涼歌舞伎第三部『裏表先代萩』

kenboutei2007-08-19

歌舞伎座第三部
『裏表先代萩「裏表」は、以前、国立で菊五郎がやったのを観て以来だが、その裏側の芝居がどうであったかは、ほとんど覚えていない。
勘三郎が小助、政岡、仁木の三役を初役で勤める。どれも奮闘、見応えがあった。
小助は、小悪党振りがハマっている。勘三郎で「天下茶屋」の元右衛門を早く観てみたいと思った。小助が医者の道益を殺そうとする時、濡らした紙を顔に貼付け、人相をわからなくしたのが面白かった。今ならストッキングを被るようなものだが、前の国立の時もやっていただろうか?
政岡の方もなかなか面白かった。特に、栄御前を見送ってからが、勘三郎独特の政岡として興味深いものであった。
例の「後には一人政岡が」のところで、花道手前の勘三郎は、栄御前を見送り終わっても、笑みも見せず、安堵もしない。むしろ、その顔つきはよりこわばり、緊張の糸を一切崩さない表情であった。
これは、真女方の演じる政岡とは明らかに違うところで、「兼ねる」役者が演じる政岡として、一つの解釈なのだろうと思った次第。(兼ねる役者なら菊五郎もそうで、昨年の菊五郎の政岡は、確かに真女方とは異なるものではあったが、その母性においては、まだ女方の方に寄り添った政岡であったと思う。)
芝翫に教わったと筋書にはあったが、例えば歌右衛門に代表されるような行き方とは異なる政岡像を、勘三郎は確信的に持っているのだと思う。
その後、死んだ千松を前でのクドキは、特段良かったわけではなかったが、きっちりと糸に乗っていて、観ていて気持ちよかった。ただ、千松の身体を左手で何度も触りすぎるのと、演じる位置が少し上手に寄っていたのが、気にはなった。
仁木弾正は、スッポンから出てきて、花道を引っ込む顔がいい。勘三郎独特の眼光。コクーン歌舞伎の和尚吉三でも観られた、妖しい目の光に、痺れる。
ただ引っ込み自体は、二三歩進むと、やや長めに立ち止まって思い入れをするのが、ちょっと余計。せっかくの仁木が、その仕種でスケールが小さくなったように思う。
それにしてもこの勘三郎の政岡(と仁木)は、裏表のような中途半端な形ではなく、竹の間や飯炊きも含めて、通し狂言でたっぷりじっくり観てみたい。
(ついでに言うなら、特に仁木弾正は、平成中村座の小屋で、是非観てみたいものだ。)
七之助の頼兼は、まだ手に余る。舞台でうろうろしているだけである。雰囲気が勝負の役なので、難しいことこの上ないが、現代の若者としては利点であろう顔の小ささも、こういう古典芝居では舞台映えがしないものである。
同じ場の、亀蔵の絹川谷蔵は、逆に顔の大きさが生かされ、錦絵のような、立派な力士となっていた。
八汐は扇雀。立役が加役として演じるのとは違って、元が女方である分、ユーモア感はない。それは配役の問題でしょうがないとも思うが、子供を殺す凄惨な場面でも笑いが起こるような隙が全くないのは、観ている方は結構息苦しい。
「床下」の男之助が勘太郎。線の細さを台詞廻しと肉体表現で補っているのが立派。最後の型は、右足をぎりぎりまで踏み込み、地に這うくらいの低い姿勢を保っていて、感心した。
「刃傷」で、最初にわざわざ仁木が外記を殺しに来る場面をつけていたが、不要に思う。この後の花道で殺り合う勘三郎の仁木は、凄みがあった。
こうして書くと、やはり「表」側中心になってしまう。「裏」の世話場も、つまらなくはなかったが、だからどうした、という感じ。福助のお竹はまずまず、家橘の家主はよく喋れたが間が悪い、弥十郎の道益は手堅い。橘太郎、菊十郎が健闘。
・・・勘三郎の政岡がこれだけの水準で、他に秀太郎三津五郎もいるのだったら、やはり「表」だけで観たかったなあ。(実際は眠ってしまうことが多いが。)