『二十歳の原点』

kenboutei2007-08-25

今日も京橋へ行く。
学生運動の挫折などから、鉄道に飛び込み自殺した女子大生・高野悦子の日記を元にした映画。
恥ずかしながら、ベストセラーとなった原作も、高野悦子も、全く知らなかった。(高野悦子という名前は聞いたことあったが、それは岩波ホールの支配人の方。)
全共闘時代を描いている映画だけに、集まる観客層も50歳代後半のオヤジ中心かと思って、(この世代は苦手なので)多少警戒していたが、フィルムセンターの待ち合わせのロビーは、いつも見かけるような、じいさん、おじさん中心で、何となくホッとする。ただ、入場の際の行列で、並び順を巡り殺気立つ場面もあり、もしかしたら当時の武闘派も混じっていたのかもしれない。
映画自体は、学生運動との関わり合いだけでなく、二十歳の女性の持つ悩みを綴った、純粋な青春映画に近い。残された日記のモノローグで話を進める手法は、主人公の心情を描くには安易な感じもするが、この映画の成り立ちから推測すると、日記を中心に置くのは当然のことだったのかもしれない。そして、実際に高野悦子が残した言葉は、青春のど真ん中で揺れる一人の若者の心境を、ストレートに訴えてかけてくる力強さがあった。
もっとも、高野悦子役の角ゆり子に魅力がなかったら、もっと退屈した映画となったことであろう。
角ゆり子は、どことなく篠原涼子に似ていて、素朴ながらも憂いがあるような表情に、新鮮な魅力を感じた。髪を切る前は、当時の麻丘めぐみのような髪形であったのも可愛かった。グレーの大きめのセーターで、買ったばかりの自転車に乗るシーンが好きだ。
下宿先や喫茶店で友人と語り合う姿は、いつの時代の学生も変わりはしない。単に語り合う話の内容が違うだけだが、時代の空気に強く影響されている点については、今も昔も全く同じである。高野悦子が今の時代の学生であったら、果たして自殺していたかどうか。その答えはわかりようもないが、高野悦子と同じような悩みで死を選ぶ若者なら、今もきっといるのだろう。
それにしても、この時代の空気は、やはり苦手だ。
追悼対象は、監督の大森健次郎。学園紛争で潰れたヘルメットや立て看板の残骸などが散らばったキャンパスを、とぼとぼと歩く主人公を俯瞰で描くショットが印象的。
主人公が密かに慕う男に、若き地井武男。今ならミスキャストっぽいが、なかなか様になっていた。
この映画、DVDにはなってないようだが、大学の映画サークルが学内で自主上映し続けるのが、一番相応しいのかもしれない。