3月歌舞伎座 千本桜通し 夜の部

kenboutei2007-03-18

『千本桜』通し、夜の部。
鴈治郎芝翫の長老人間国宝がいない分、昼の部より軽い印象がした。が、まとまりはあったと思う。メインディッシュのたっぷり感があった昼の部に対し、夜の部はデザートといった感じか。(飲み会の後のラーメンかもしれない。)
「木の実・小金吾討死」仁左衛門が権太で、上方の演出。仁左衛門の権太は3年前の上演時も観ているようなのだが、あまり記憶がない。
秀太郎との夫婦のやりとりが、姉さん女房で、今でいう「できちゃった婚」の生々しさを感じさせて良かった。自分の田舎にも、こういう関係の友人がいたものである。上方の雰囲気はこの松嶋屋兄弟には感じたが、小金吾の扇雀には感じなかった。東蔵の若葉の内侍は、もったりしていて、あまり良くない。
「すし屋」夜の部の見ものを選ぶなら、この場だろう。
孝太郎のお里が、慣れてきたのか、おちゃっぴい(死語?)な感じが出ていて、感心した。時々、女方の台詞廻しから離れて、現代劇風の話し言葉が出てくるのは良くないが(この辺は、福助あたりにも頻繁に観られること。コクーンや新作歌舞伎の一方の弊害のような気もする。)、これまでのキンキンした口調が気にならなくなり、丸本歌舞伎の柔らかみが出てきたことは、喜ばしい。
3年前のこともあまり覚えていないので、仁左衛門の上方演出中、筋書で指摘している以外に気づいたことを、備忘のため挙げておく。

  • 権太が家に来て、入り口前で弥助を人相書きと比較する場面がない。
  • 父親が帰ってきた時の権太の慌てぶりの入れ事が少ない。
  • 母親の膝に顔をうずめる程、甘える権太。
  • 金を入れた桶と首を入れた桶の位置関係を、「右から2番目」とわかるように、左團次の弥左衛門は、一番左端の桶をわざわざ右端に持っていく。
  • お里が二人で寝ようとして、枕を二つ見せる。
  • 権太が縛って連れてきた女房と子供の顔を上げさせるのを、足を使わず両手でやる。(やはり上方の延若の演出として、写真やビデオで観たことがある。)
  • 首実検を下手で見つめる時、六代目(五代目だったかな?)が洗練したという、着物の片袖をまくり、維盛の首に違いない、となった時に、すっと袖を落とす仕草を、仁左衛門は見せない。
  • 梶原が帰った後、権太は花道まで見送り、戻って、父親に「うまくいった」ということを言いかけようとして、刺される。(これによって、権太と父親の誤解の悲劇が一層深まる。)
  • 刺された後の、権太戻りでは、母親たちが刀をすぐに抜いて、帯で腹を締める。
  • 舞台の寿司桶の後ろに、緑の葉っぱがあったが、あれは3年前にもあったかな?(この葉っぱの受け皿に入っている水を目の周りにつけ、嘘泣きを演出していた。)

他にも細かい手順や台詞廻しも含めて(「父っつぁん、父っつぁん、父っつぁん」は仁左衛門は言っていたかな?)たくさん違いがあるのだろうが、自分の気づいた主要なところは、そんなところ。
で、こうした上方演出の仁左衛門の権太、前の「木の実」の場から続く権太のやんちゃっぷりと愛嬌が、一転して悲劇に繋がる落差が、仁左衛門の情の深さによって、よく表れていた。(『荒川の佐吉』もそうだったが、子供と絡む仁左衛門は、その人柄が滲み出て、何とも素敵だ。)
時蔵の弥助、女方の癖なのか、維盛に戻る時の仕草が、やや勿体振ったり、首を傾げたりするのが難。
左團次の弥左衛門は、本格。
母親の竹三郎、久しぶりに観るが元気で何より。
松也が梶原の部下だったが、声が立派で、立役としても十分行ける。宗之助の方はちょっと気の毒。
梶原の我當は、この役に相応しい重厚さと格を備えていたが、今月この一役だけとは寂しい。
「四の切」菊五郎の狐忠信。これも最近では2年前の勘三郎襲名時に観ているのだが、やはりあまり覚えていない。その時の感想から思い出すと、今回の菊五郎は、前よりくたびれた感じの狐だった。本物の忠信の方も、それほど良くなかった。
良かったのは、義経梅玉。この場の義経は一種の狂言廻しなので、それほど注目されないのが常だが、今日の梅玉は、台詞の気高さに加え、狐忠信と自分の境遇の共通性を嘆く哀感が実によく伝わってきた。この場の義経としては、これまで観た中で、最も印象に残るものであった。さすが義経役者。(と書いて、すぐ忘れないようにしなければ。)
福助は、昼の部に続いて、出しゃばりすぎず、なかなか良い静御前であったと思う。
田之助の飛鳥が、白髪頭で、真っ白け。これでいいのか?
「奥庭」なくてもいい場だと思っていたが、幸四郎が出てきて、歌舞伎らしい終わり方となった。
・・・結局、「千本桜」の決定版となるには、今ひとつ、物足りなさを感じて、歌舞伎座を後にした。(寒い夜だった。)