藤十郎襲名・夜の部

kenboutei2006-01-09

坂田藤十郎襲名披露興行の歌舞伎座夜の部へ。
勘三郎襲名時のあの賑わいはなく、静かな歌舞伎座。幕間のロビーで扇千景も所在なげな様子だった。
藤十郎の恋』初めて観る。役のために不倫をしかけ、あげくに相手は自殺、それも芸のためには仕方がない、と開き直る初代藤十郎。こんな芝居に、今の観客は共感できるのだろうか。荒唐無稽や時代錯誤、矛盾だらけの歌舞伎芝居は沢山あるが、それも古典としての魅力、役者や様式美が優ってこそ楽しめるのだと思う。今回も、藤十郎とお梶の色模様が無類に面白ければまた印象も違ったのであろうが、単に脚本をなぞっているだけのような扇雀時蔵では、それもほど遠い。多分、演じている本人達が、この筋に納得していないと思う。上演記録を観ると、昭和30年代までは頻繁にかかっていたが、それからは数える程。玩辞楼十二曲だからといって、あえて選ぶ演目ではなかったと思う。そもそも今回襲名する藤十郎のイメージが確実に悪くなる。
と、真面目に受け取るとそうなるが、江戸芝居の舞台裏の雰囲気などは楽しめた。宗之助扮するちょっと駄目な役者振りが面白かった。扇雀の身のこなしに、和事の雰囲気が出ていたことも、印象に残る。
『口上』雀右衛門梅玉魁春歌六歌昇時蔵東蔵我當幸四郎吉右衛門秀太郎段四郎福助、壱太郎、扇雀翫雀の順。その後、新藤十郎と、初舞台の虎之介が挨拶。
いつもハラハラさせられる雀右衛門の挨拶は、今回は、まあ何とか。231年振りの襲名、というところを、131年振りと間違っていたが。(雀右衛門からすると、100年は誤差の範囲内かも)
最近の雑談風で笑いの絶えない口上と違って、どの役者も真面目な挨拶。まあ、主役が主役だけに、そうなるのだろう。その中で、身内の扇雀が「山城屋となって、裃の色も異なり、親子の縁も薄れた」、翫雀が「70歳を超えて襲名するとは・・・。成駒屋としての束縛から自由になれて羨ましい」と、言いたいことを言っていたのが面白かった。
梅玉が「私生活も見習いたい」と言って、観客の一部から失笑。
藤十郎の挨拶は、これも一つの大芝居といったところ。本当に満足気な表情をしていた。
先代萩『御殿』『床下』藤十郎襲名披露舞台。藤十郎の政岡を観るのは、国立劇場での通し以来だったが、今回の方が面白かった。
特に、「飯炊き」での、千松とのやり取りが良かった。いつもは飽きて必ず眠ってしまう「飯炊き」が、藤十郎の気合いの入った演技で、面白く観入ることができた。(それでも、ちょっとウトウトしたが) また、初舞台の虎之介の千松が名演技。相手の表情を伺ったり、ちゃんと芝居をしているのがエラい。虎之介のおかげで面白くなったとも言える。
そうしてわかったのは、この「御殿」が、政岡と千松の親子の物語であったということ。これまでは、お家騒動の一環として、実は、早く千松が殺されて、「床下」にならないかな、としか思っていなかったのだが、今回は、そのお家騒動は単なる背景であって、その中での親子の関係、絆が、強く感じられた。それは、「飯炊き」からの政岡の千松への視線、受ける千松の態度に、訴えるものがあったからだと思う。藤十郎、虎之介の一つ一つの動作が、しっかりと意味あるものになっていた。だからこそ、「後には一人政岡が」からの、政岡の嘆きが、痛切に胸に響いてくる。立派に「戦死」した息子に対する親の、誇りと悲しみの発露が、すんなりと受け入れられた。なるほど、烈女とはこういうものかとも思った。これまで観た中で、一番の政岡であり、千松であった。
梅玉の八汐は、元々体温の低そうなこの優のイメージが、案外合っていた。千松の喉元へ突き刺す懐剣を、過度にグリグリしないのは、一つの見識だと思う。
秀太郎の栄御前は、休演の芝翫の代役だったが、むしろこの配役で良かった気がする。
何だか凄い「御殿」を観てしまったという印象。
変わって、「床下」になる。舞台中央からセリ上がってくる吉右衛門の顔が立派。動き、台詞も大きく古怪で、言うことは無い。一方、幸四郎の仁木弾正は、どこか変。眠たげな顔つきをし、あたりを神経質に伺い、ニヒルな笑いをする。もっと、素直に、大時代にできないものか。こんな心理的な仁木では、役が小さくなると思う。(まあ、いつも幸四郎は「心理的」なのだが)
『島の千歳』『供奴』踊り二題。前者が福助、後者は橋之助染五郎福助の踊りが、いつものようにあまりクネクネせず、格調高く踊り、非常に良かった。今日は舞台間近で観ていたのだが、福助の顔にも皺や弛みが目につくようになった。しかし、それは決してマイナス材料ではなく、役者としては、これからが面白くなるのではないか、と踊りに見とれながら、そんなことも思った。
「供奴」は、染五郎の踊りに若干覇気がなかった。