11月国立劇場

kenboutei2009-11-03

その演目の並びと出演者の少なさだけを見ると、何やら地方巡業のような趣きすら感じる今月の国立劇場なのだが、さすがに團十郎藤十郎の東西の大看板の出座だけに、それだけでは終わらない、なかなか充実したものであった。
外郎売團十郎の曽我五郎。花道から本舞台に来て、すぐに本人の口上となる。
「今年は、国立の『象引』で復帰でき、今年最後の出演に、また国立で『外郎売』をやらせてもらう。こんな嬉しいことはない。お目間怠き点もあるが、鷹揚なご見物を」
早口の言い立ては、今日は初日のせいか、少し詰まっていたが、こちらは言われた通り鷹揚な見物をしているので、そんなことは気にならなかった。
それより、この時自分が思っていたのは、目の前の團十郎の老化についてであった。
今日は久しぶりにほぼ最前列で舞台を観ていたのだが、白塗りの下に浮かんでいる皺が、いやでも目についた。それは、もはや壮年期を超えた、老人の皺模様といってもよい。
團十郎も還暦を超えているという事実を考えると、驚くことでもないかもしれない。また、老いてもなお、少年の心持ちで演じる前髪の荒事をやれることこそが、歌舞伎の芸の奥深さでもあろう。そう思いながら観ていると、何だか團十郎が一瞬、(皺だらけの)寿海に似てきたような感覚にも陥ってしまった。(舞台が近すぎると、色々なことを夢想するようだ。)
『吃又』藤十郎のおとく、團十郎の又平。
團十郎の又平は、同じ国立での鑑賞教室以来。(確か、初役だったはず。) その時、例の絵が抜け出る場面で、團十郎は「かか、抜けたー!」と大音声で叫び、比較的若い客層からも歓声が上がり、結構盛り上がったことを覚えている。
なかなか面白い又平だと思ったものだが、その後この役を演じる役者は、富十郎三津五郎吉右衛門も、そんな大げさな絶叫はしないので、たぶん演じ方としては、團十郎のは異端なのだと思う。
久しぶりに観る團十郎の又平は、やはり「抜けたー!」と高らかに叫んでいた。それまでの鬱屈した気持ちの全てを晴らすかのように。
単純といえば単純で、何の工夫もないのだが、自分はこの團十郎の又平が、好きである。
團十郎の又平は、義太夫狂言の面白さもないし、又平が本来持っているであろう心の奥の懊悩も薄い。三津五郎吉右衛門の時には必ず感じた、屈折した部分もない。
そこにあるのは、吃りで苦しんでいても、決して卑屈にならず、ピュアで純真なままの、絵師の姿である。そしてそれは、團十郎その人なのだということに、気がつくのである。
「抜けたー!」と叫んでいるのは、又平であると同時に團十郎であり、そこが自分にとって、何よりもこの又平が愛おしくなる理由なのであった。(もっとも、そんなピュアな又平ならば、何故死を選ぼうとするのか、という問題は残るので、このような役の解釈は、やはり異端であるとは思うのだが。)
対する藤十郎のおとくは、実に立派。こちらは義太夫狂言の骨法を踏まえた正統な演技で、團十郎とは違った意味でホレボレして観ていた。
彦三郎の将監は本役。右之助の北の方も慈愛があって良い。亀鶴の修理之助は、前髪の初々しさがあった。
白塗りではなく肌塗りの團十郎は、『外郎売』の時のような老いは感じさせず、むしろ若々しさもあって、ちょっと安心した。(それにしても、團十郎は得難い役者だなあ。早口の得意な役と吃りの役を続けて出しているのに、それが売りとなっていないという点も、逆説的な意味で、彼の魅力なのだと思う。)
『大津絵道成寺昔、明治座で今の勘三郎が演じていたのを観たが、もうほとんど覚えていない。藤十郎は、藤娘、鷹匠、座頭、船頭、大津絵の鬼と変化していくが、メインは藤娘の恰好で「道成寺」を踊るという趣向。前の明治座もそうだったかなあ?
踊りとしての面白さはあまり感じられなかった。
途中、藤十郎文化勲章授章を祝う台詞が織り交ぜられていた。
押し戻しとなって、亀鶴の弁慶、翫雀の矢の根の五郎が揃うのだが、舞台左袖で後ろ向きにしゃがんで控えていた亀鶴が、ドスン、という音とともに、うつ伏せに倒れた。後見らが慌てて黒幕を出して舞台から運び出していた。嘔吐でもしたのか、倒れた場所を拭いたりもしていた。
結局、藤十郎翫雀だけで幕となった。
終演後のロビーには、藤十郎夫人(扇千景)が耳打ちされながら、客への挨拶もそこそこに、心配そうに控え室の方へ向かう姿もあった。(亀鶴は翌日から復帰したそうで、まずは安堵。)