歌舞伎座12月昼夜

kenboutei2008-12-07

昼の部
『高時』梅玉の高時。柱に凭れ掛かって、酒を飲んでいる様は、高時の傍若無人さが表れていて、なかなか良かった。身体ごと逆さにされたり、足と手を持たれてブランコみたいに振り回されたり、ご苦労。しかし、観ている方は、その意味するところが何なのか、良くわからないままであったが。冒頭の、犬の場面は、過去の高時ではあまり記憶がないのだが、筋書の上演記録では、しっかりと残っているから、多分観ていたのだろうなあ。
娘道成寺三津五郎坂東流道成寺。今月一番期待していたものだが、全く期待通りで、今も興奮さめやらず。常磐津での道行、とても面白かった。何と言うか、きちんとした踊りというのがどういうものか、それをしっかり認識した。
正直に言うと、自分はまだ踊りについてきちんと理解していないと思うのだが、それ故に、単に見た目で美しい踊りについては、無批判に素晴らしいと思ってしまう。しかし、こうして三津五郎の踊りを観ると、踊りに関する知識の欠如はあるにせよ、単に見た目の美しさとは違う、舞踊の表現としての面白さが、だんだん伝わって来るのである。
今日の娘道成寺で、自分が感じたことは、まず第一に、品があること。そして、女性の美しさを、三津五郎から感じたことである。三津五郎女形は、踊りに限らずこれまでも観てきたが、まあ立役ゆえに、それほど美しいとも思わなかったのだが、今日の花子は、とてつもなく美しかった。それはもちろん、踊りから来るものであったのだが、熟達した芸の高みがあってこその、美しさでもあったのではないかと思うのである。
そして、今回の道成寺は、花道だけではなく、本舞台に入っても、どこかゆったりとした、落ち着いた気品があり、それは長唄のテンポや三味線の曲調の穏やかさでもわかることであったのだが、そのことが、むしろ三津五郎の踊りに、切れ味を与えていたのに加え、踊りの雰囲気が、極めて近代的な洗練があったのも、特徴的であったと思う。そう、三津五郎の今日の道成寺は、坂東流の古い流儀を伝えているとのことだが、三津五郎の身体から醸し出されたのは、極めて近代的に洗練された踊りのように思えたのであった。
それが何故なのかは、自分にはとても解明できないのだが、とにかく、三津五郎の新しい道成寺の素晴らしさは、自分なりに堪能できたように思う。こんな面白い道成寺は、初めての経験である。
踊りの合間の、手拭いの投げ入れもなく、一般的には物足りなさがあったのかもしれないが、そんなことは、実に瑣末なことに思える程、素晴らしい踊りに、心が洗われた。
『佐倉義民伝』幸四郎の宗五郎。ほとんど寝ていて、起きても場面が変わっていないので、また寝てしまうという悪循環であった。
最後の直訴の場は起きていたが、弥十郎の松平伊豆守が、ニンではなく、宗五郎の訴状を取り上げない悪人に思っていたので、全く真逆の善人だったのには、ちょっと戸惑った。
 
夜の部
『石切梶原』富十郎の梶原。さすがに立派でかつ爽やか。あの年齢で、この色気と若さがあるのが、凄い。段四郎の六郎太夫魁春の梢。
『高坏』染五郎の次郎冠者。染五郎は、前半の方が面白い。下駄を履いての拍子は、まだぎこちない。
『籠釣瓶』福助の八ツ橋は、二年前にも観ており、それほど期待していなかったのだが、意外にも面白かった。
なぜ面白かったかというと、まず第一に、今回は脇役が非常に充実していたということにある。特に良かったのは、市蔵の釣鐘権八。これまでこの役は、芦燕の専売特許であったのだが、最近は台詞がグタグタで、全く面白くなかった。ところが市蔵は、八ツ橋をダシにして金をむせびとろうというのが明白で、それが叶わないとなると、栄之丞をそそのかそうとする。八ツ橋の愛想尽かしの起点となる重要な役回りが、無理なく表現されており、ひいてはこの役の重要性も認識させるだけの、上等な演技であった。
もう一つ感心したのは、東蔵の九重。最初、花道から出て来た時は、思わず仰け反ってしまったのだが、どうしてどうして、二幕目からは、実に情愛のある、見事な花魁ぶりであった。特に、愛想尽かしの後、傷心の次郎左衛門の肩に、そっと手をかけるところなどは、まことにうまい。八ツ橋という美貌だが冷徹な花魁の対極として、この情実の九重は、極めて重要であり、それを演じ切った東蔵の手腕に感心した。
他にも、段四郎の治六や魁春立花屋女房など、みな手に入った役で、安心して観ることができた。
そして、こうした脇に支えられて、福助の八ツ橋が、実に立派であった。そう思えたのは、今日の八ツ橋が、前回以上に、首尾一貫して、次郎左衛門に冷徹であったからである。
自分の八ツ橋像は、福助によって完全に変わった。この八ツ橋は、次郎左衛門を、一度として愛してはいない。思わせぶりな態度で、客から金を取るだけ取る、吉原の冷酷な収奪構造を象徴する女、今で言えば、六本木のキャバクラ嬢か、銀座のママと同じ構図が、今日の芝居では、嫌というほど思い知らされた。佐野次郎左衛門、お気の毒、といった感じである。(ちょっと、例が卑近かな。)
その証拠に、福助の八ツ橋は、兵庫屋の廻し部屋の場から縁切りの場に切り替わる、廻り舞台で、はっきりと次郎左衛門とは縁を切ると言って、栄之丞から突き返されていた起請を相手に戻すのである。ここまで具体的な態度を示した八ツ橋は初めて観る。
そう考えると、序幕のあの八ツ橋の笑みも、別にミステリアスでも何でもなく、単に、田舎者の次郎左衛門を、バカにした笑みであったことがわかる。福助は、まず、次郎左衛門に気づくまでに時間をかけるのだが、それは、「え?こいつ何者?」といった感じの気づき方である。そして、そのまま笑うのである。
ここには、かつて歌右衛門の八ツ橋の時に論じられていたような神秘性などはなく、そして、この芝居はそれで良いのだと、はじめて割り切ることができた。
これまでは、何とか八ツ橋の心情を理解しようと、観てきたのだが、そんなことなど、全く不要な、軽薄で、ぐずぐずしている愚かな女であるのが、福助の八ツ橋であった。
そして、そうなって初めて、幸四郎の佐野次郎左衛門に、同情できた。愛想尽かしの後の、寂しくなった座敷での憔悴に、思わずジーンとしてしまったのも、自分にとっては意外なことであった。
最後の殺しの場の幸四郎も、凄みがあって誠に良かった。絵になっていた。
染五郎の栄之丞が、色悪ではなく、つっころばしに近い感じになっていたのも、この文脈では、納得の行くものである。今日の芝居では、誰も染五郎に悪い感情は抱かないだろうが、八ツ橋の心境からいって、それはそれで良いのだと思う。
と、まあ、非常に面白く読み取れた今日の「籠釣瓶」だったのだが、果たして、もともとそんな芝居だったのかどうかは、よくわかりません。