亀治郎の会

kenboutei2008-08-24

今日は、久しぶりに特段の予定もなく、オリンピックでも見ながらのんびりしようと思っていたのだが、男子マラソンは早々に日本勢が脱落してしまい、手持ち無沙汰に何となくネットサーフィンをしていると、「亀治郎の会」の最終日であることを知る。以前、チラシでこの会の内容を知った時、時間が許せば行こうかなと思った程度で、そのまま忘れていた。
予約もしていないが、まあ大丈夫だろうと、急遽、国立劇場へ赴く。幸い当日券は販売されていたが、すでに良席はなく、三階の三等席を購入。3,000円。7月の鑑賞教室での席とだいたい同じ位置。
亀治郎の会」を観に行くのは、6回目にして初めてなのだが、入場すると、かなりの盛況ぶり。入り口近くの報道関係者のスペースに多くの人が集まっていて、個人の会としては、ちょっと異質の雰囲気であった。
 
俊寛亀治郎俊寛。自主公演とあって、意欲的に新演出で取り組んでいるところが、亀治郎ならでは。
浅葱幕が振り落とされると、盆の真ん中がぽっかり開いており(三階だと舞台機構が丸見えとなる。)、そこから俊寛の庵がセリ上がって来る。プログラムによると、本人がセリ上がりたいと希望したそうだが、上から見ている分には、その効果は疑問であった。むしろ、前進座のような、板付きの方が、今回の演出にはあっていたと思う。
康頼が上手の崖から、成経が花道から出て来る。これも新演出だが、なんだかバラバラな感じで落ち着かない。康頼を崖から降りて登場させるのなら、やはり前進座同様、下手の方が、自然である。
赦免船は下手から登場。これは澤瀉屋の型とのこと。船が下手にあることで、再出発の時の俊寛の見送りは自然に見えたが、そんなに拘る型でもない。
瀬尾との立ち廻りでは、俊寛の刀が庵の柱に突刺さり、丸腰の俊寛に瀬尾が切り掛かるという、よりスリリングな演出となっていた。
とまあ、いろいろ新しいことに挑戦するのは良い事だが、今日の演出に関しては、それで何かが良くなったり、これまでの演出に比較して別の発見があったかというと、そんな感じもしないので、全体的に目新しさだけに終始したようである。
で、亀治郎俊寛だが、相変わらずの達者な演技で、畏れ入る。才気煥発というのは、彼のことを言うのだろうが、一方で、器用すぎてつまらない、という部分も相変わらず感じてしまった。
若い亀治郎が演じるのだから、当然にこの俊寛は若い。しかし、亀治郎は、この俊寛をできるだけ老けさせようとしている。そのギャップがどうしても解消されなかった。
赦免状に自分の名前が書かれていないことを確認して、「ない」と大声を発するところや、船に乗るのを拒む千鳥を睨みつけて「乗れ」と叫ぶところ、或いは先に述べた瀬尾との一連の立ち廻りなどは、若い役者の情熱が溢れていて、実はとても好感を持って眺めていたのだが、他の部分の俊寛は、どこかくたびれた、いつも他の年寄りの役者がやるイメージの俊寛のままであって、そこのギャップが、何とももどかしかった。もっと素直に、自然に演じればいいのに、と思った。
その最大のギャップというか、もどかしさが、クライマックスの幕切れに表れる。
赦免船を追いかけて、岩場を登るが、つまずいて、ゴロゴロと崖を転がってしまう。再び登り、松の枝を折って、それを放り投げ、崖っぷちから身を乗り出すどころか、そのまま上半身を崖下、すなわち海に向かって投げ出してしまう。
ここまで情熱的に動いた後、最後は、身体を起こして、遠くを見つめて、幕となる。
見た目には非常に面白い、そして過去のどの俊寛役者でも見た事のない、強烈な印象を与える俊寛である。
しかし、この俊寛が、遠ざかる赦免船を見つめて、何を思っているのか、自分にはわからなかった。それは、亀治郎という役者が、この俊寛という役をどのように捉えているのかがわからない、というのと同義でもあるが。
それにしても、この若さで、最後まで一定の水準以上に演じ切ってしまうことの方が、まずは驚愕であり、脇の役者も含めて、このまま歌舞伎座の本公演にかけてもおかしくはない。そしてその時にこそ、亀治郎の考える俊寛像を、改めて確認したいと思う。
「思い切っても凡夫心」あたりからの、波布を使った舞台装置の変転は、特に三階からは、全体が鮮やかに見えて、面白かった。(ただ、盆廻しで登場する岩山の背後で、セリ下がって行く俊寛の庵の空間までが、ずっと見えたままであったのが、ちょっと見栄えがしなかったが。)
亀三郎の成経が、口跡さわやかでとても良い。(実は、今日、急遽行こうと踏ん切りがついたのも、亀三郎の成経を見たいというのがあったのだ。)しかし、最後に赦免船が引っ込む時に、扇を丹左衛門から受取ってかざすのは、前進座と同じやり方であったが、その形があまりよくなかった。(扇の色も水色で派手過ぎる。)
千鳥は、プログラムによると、尾上右近。しかし、自分のイメージしていた右近の声と全然違い、3階からだと顔もはっきりとは確認できず、ずっと、中堅の名題が代役しているのではないかと、疑っていたのだが、終わってからロビーにそれらしき代役情報を確認してもなかったので、たぶん、右近だったのだろう。こんなに老成していたかなあ。
門之助の丹左衛門、亀鶴の康頼は手堅い。
段四郎が瀬尾で付き合う。
次に亀治郎俊寛を演じる時、どのように進化しているのか、非常に楽しみだ。
 
京鹿子娘道成寺なかなか面白い、亀治郎の花子であった。
本舞台は桜の書き割り、上手に竹本連中。鐘もまだ釣られておらず、いつもの道成寺とは違った趣き。
聞いたか坊主は省略され、いきなり花子の登場となるが、亀治郎の花子は花道スッポンから現れる。(よっぽどセリ上がりが好きなのだなあ。)
ここでの亀治郎の舞いが、何とも素敵であった。黒ではなく、赤の着付けが良く似合い、そして、指先の美しさは、三階からでも実感させられる。
花道から本舞台に移ると、桜の書割りが上手下手に分かれて、道成寺境内への石段が、背景となる。舞台背景が変化することで、花子の道成寺までの動きが、より視覚的にはっきりと感じられ、この時突然、前に歌右衛門一周忌に歌舞伎座で観た、歌右衛門主演の道成寺映画が思い出され、自分でも驚いてしまった。
門前での「生娘」「白拍子」などのやり取りも一切省略、所化と若干のやりとりの後、舞台に長唄囃子連中、鐘も上から降りてきて、いつもの道成寺の風景となる。
この辺の、見たいところだけ見せ、余計と思われるところは省略するという、合理性と潔さが、いかにも亀治郎、というか、澤瀉屋的発想である。
その合理性のせいかどうかは知らないが、何故か「都育ちは蓮葉な者じゃえ」のところでの、引き抜きは省略。赤の着付けのまま、「恋の分里〜」に入る。(その後の引き抜きも省略していた。)
その前の、烏帽子の扱いは、成駒屋型で、鐘の綱に引っ掛けていた。
桜の花びらを集めての鞠付きは、しゃがみながら小刻みに移動するところで、拍手を浴びていたが、気分が良かったのか、手元の鞠を見ずに、観客を見回して動きまわっていた。ちょっと、狐忠信風になっていたかも。
振出し笠、鞨鼓、鈴太鼓など、小道具を持った踊りは、意外とぎこちない。
「恋の手習い」からの手拭いの扱いも、ちょっと雑に感じた。
鐘入りは、鐘の下には入らず、後ろに回りこむ。降りてきた鐘に登って、長い帯をぱっと流して、蛇体に見立て、幕。
こうして思い出しながら書いてみると、何だかあっさりした感じだが、実際には、長唄に合わせて、鐘入りまでどんどん盛り上がって行く。その辺の、客の乗せ方が、亀治郎はもはやベテランの域である。それを踊りでやっているのだから、凄いことである。
また、いきなりスッポンから登場し、ということは、最初から妖怪変化としての花子であり、その後も派手な引き抜きをせず、気分を変えずに、一貫して鐘に恨みを持つ蛇体の気持ちで踊っていたのが、亀治郎独特の花子観であり、これは一つの解釈として、非常に興味深かった。
この道成寺も、歌舞伎座で見せても、おかしくない。
所化に出ていた、亀三郎の強肩も、一つの見どころであった。
幕が降りても、拍手鳴り止まず、カーテンコールとなる。
再び幕が上がり、上手から亀治郎登場。(最終日の自然発生的現象かとも思ったが、ちゃんと鬘を直して出てきたところを見ると、昨日もあったのだろうな。)
亀治郎、全く一言も発せず、花子の姿で、一階下手、上手とゆっくり眺め、見られた席の方からどんどん客が立ち上がっていく。一階の次は、二階へ顔と身体を向け、同じように下手、上手と観客が立ち上がってのスタンディング・オベーション
自分は3階のほぼ最上段の席だったので、この客の興奮振りが、見ていて面白かったし、堂に入った亀治郎の客煽りに、改めて舌を巻いた。『俊寛』の時にも感じていたのだが、ますます猿之助に似てきており、いっそ今すぐ襲名したって、誰も文句は言わないのではないかとすら思った。(更についでに言うと、「四の切」も、海老蔵ではなく、亀治郎がきちんと継ぐべきだろう。)
今日の大向こうがまた、気合いが入っていた。幸か不幸か、そのすぐ近くの席だったので、最初のうちは耳障りだったが、だんだん慣れてきて、最後は舞台と連動した気持ち良さを感じた。何となく、亀治郎への愛を感じる大向こうでもあった。
 
1,800円もしたプログラムがまた面白い。ピンクの表紙の単行本。両A面風の作りで、前から読むと自主公演用プログラム(表紙のタイトルが「The 6th Kamejiro Gala」とある。自分の公演を、「ガラ」と言ってしまう歌舞伎役者が出るとはねえ。)
後ろ半分は、亀治郎の写真集となっている。(何故か、ウォーホールへのトリビュートである。)
そのプログラムを、若いお姉ちゃんが売っていた。
・・・公演そのものを含めて、大学のサークルのノリなのだった。(でも、楽しかったです。)