八月歌舞伎座 一部・三部

kenboutei2008-08-17

歌舞伎座の納涼歌舞伎、今日は一部と三部という、変則的な観劇。
一部
『女暫』この一幕は、理屈抜きで楽しめる。『暫』よりもカジュアルな感じ。福助巴御前も、愛嬌があって良かったが、どこかあっさり感があった。花道で、横をプイっとやる仕種もなかったのだが、それが成駒屋の型なのだろうか。
市蔵の成田五郎は、花道の出が、しょぼい。勘太郎の震斎、七之助の女鯰。
全体的にこじんまりとした舞台の中で、感心したのは、三津五郎の手塚太郎。いわゆるご馳走役だが、前髪の若々しさを、揚幕からの甲の声で見事に表現していた。今月の三津五郎は、一部から三部まで、全て充実した芝居を観せてくれた。
勘三郎もご馳走の舞台番。今日のお客は北京オリンピックも観ないで来てくれた、と笑わせる。女子マラソンの結果もさりげなく教えてくれた。毎日、五輪ネタをやっているのだろうな。(そういえば、長野オリンピックの時は、團十郎が口上時に、モーグル里谷多英の金メダルを教えてくれたっけ。)
このカジュアル感も、歌舞伎の一つの魅力だろう。
『三人連獅子』勘三郎親子のいつもの『連獅子』とは違う、楳茂都流の舞踊。橋之助、国生親子に、扇雀が母獅子として付き合う。初めて観るが、あまり面白味はなかった。国生は、歩き方といい、踏み込みといい、踊りの身体にまだなっていない。踊りというのは、ある程度才能も必要で、子供でも、例えば、今年2月の染五郎の『鏡獅子』の時の胡蝶二人には、そういう才能を感じたものだが、今日の国生からは、それを感じ取ることはなかった。但し、最後の毛振りは、なかなか頑張っていた。
『らくだ』菊五郎劇団で一度観ているのだが、あまり印象に残っていない。勘三郎のは、少し演出が違っているのだろうが、亀蔵の死体の怪演に笑っているうちに、あっという間に終わってしまった。最後はこれで終わり?といった感じでもあった。
三津五郎演じる、遊び人・半次が非常に興味深かった。死体を利用して大家から酒や肴をせしめようとする、その行動がかなりアナーキーで、特に大家のところでの無茶振りは、凄みすら感じさせるものがあり、その破天荒さは、死体の動きの面白さより、注目すべきものであった。ただその分、酒の入った久六に攻守を逆転されてしまうのが、ちょっと呆気なさ過ぎる気もしたが。
勘三郎の久六。
小山三が、冒頭に三津五郎と絡むが、プロンプが聞こえなかったのか、「え?」と聞き返していたのが、ご愛嬌。

三部
一部が終わって、三部まで4時間程あったので、休憩も兼ねて近所の図書館へ。しかし午後5時で閉館、雨も降ってきて、タリーズで残りの時間をつぶす。
『紅葉狩』勘太郎の初役の更科姫。神妙な踊り。手振り、二枚扇の扱い、後ろを向いて座したりする時の形などに、見応えがあった。後シテはそれほどでもなかった。巳之助の山神は、踊りにも台詞にも、まだキレがない。橋之助の維茂。
『野田版愛陀姫』今月最大の話題と思われる野田秀樹の新作は、オペラ「アイーダ」の翻案劇。
普段オペラは殆ど観ないので、一部終了後に行った図書館で、ガイドブックを探して「アイーダ」のあらすじを読み、筋書の方も事前に読んでおいた。そのおかげで、登場人物の関係は、すんなりと頭に入った。
舞台を日本の戦国時代に移し、美濃の斎藤家と尾張織田家の争いの中で、アイーダ(愛陀姫)、ラダメス(木村駄目助左衛門)、アムネリス(濃姫)の恋の三角関係を描く。
洪水のような台詞の応酬が、いかにも野田秀樹の芝居という感じだが、極めて興味深かったのは、例えば、濃姫が、愛陀姫と駄目助左衛門との関係を疑う時の独白と、駄目助左衛門が、自分の愛陀姫への気持ちを濃姫に悟られたのではないかと心配になる時の独白を、同じ舞台の上で、二人がそれぞれに語り出す。更に、愛陀姫も登場して、自分の心情を吐露する、前半の一場面。
ああ、これは黙阿弥だな、と思った。
別に七五調というわけでもないのだが、登場人物がそれぞれに自分の台詞を重ねて行く中でのリズムが、気持ち良い陶酔感を自分にもたらしてくれたのである。そういう意味で、ちょっと大袈裟かもしれないが、野田秀樹というのは、現代の黙阿弥のようだと思った次第。
一人が話している時に、周囲の大勢が固まって動かないという演出も、歌舞伎の同様の手法よりはかなりオーバーであるが、その舞台効果は十分あったと思う。
そして、勘三郎濃姫七之助の愛陀姫、橋之助の駄目助左衛門が、その過剰な台詞を、見事に捌いてみせてくれたのが、何より素晴らしかった。特に勘三郎は、緊張し過ぎているのではないかと思える程の真剣な演技で、この芝居に全身全霊を込めているのが、強く伝わってきた。
後半に出て来る、織田信秀役の三津五郎の台詞も、さすがにうまい。台詞術という点では、たとえ野田芝居であっても、三津五郎が一番抜き出ている。
福助扇雀の祈祷師コンビが、以前の『研辰の討たれ』でもみられた、群衆心理の恐ろしさを、そのエキセントリックな演技で暴いて行くのも面白かった。この辺りは、野田秀樹の真骨頂であろう。
織田軍を打ち破っての凱旋で流れる下座音楽は、オペラに親しんでいない自分でも知っている旋律。(昔、ハムのCMで流れていた曲だ!)
透明のビニールでできた象が登場するのも、そういえばオペラの写真で象が出ている場面を見たような記憶がある。オペラのパロディとしてはなかなか楽しいし、トランペットも駆使した音曲を含めて、そのエンタテイメント性は非常に高い。
アコーディオン式の背景板を効果的に使った舞台装置も見事。
こうした、台詞に込める役者の情熱と、舞台上のエンタテインメント性は、猿之助スーパー歌舞伎に通じるものがあると思った。
最後の場で、駄目助左衛門は地下牢に閉じ込められる。地下牢の内部をセリ上げで見せるのも、歌舞伎の舞台の機構をうまく使った演出で、感心した。セリ上がった地下牢の上をとぼとぼと歩いて行く、勘三郎濃姫が印象的。
地下牢には、愛陀姫が潜んでおり、駄目助と愛陀の二人の抱擁で幕。二つの風船が地下牢からふわふわと浮かんで天井に上がって行く。『研辰』でのラストの紅葉の落下とは逆の演出で、これも良かった。
終演後のカーテンコールは一度のみ。いつもの勘三郎の新作とは異なる、神妙な雰囲気。(コクーンの『桜姫』が、こんな感じだったなあ。)
とまあ、自分としてはなかなか面白く観れた舞台だったのだが、難点もいくつかある。
一つは、役の名前。いくらなんでも主役の名前が、「駄目助左衛門」はないだろう。オペラの方が「ラダメス」で、劇中での祈祷師の占いで、この名前が重要な役割を果たすことから、ようやく合点が行ったのだが、それにしても、そこまで拘るエピソードでもあるまい。一方のアムネリスが濃姫になっているのだから、アイーダもラダメスも、全くオペラから離れた名前でも良かったと思う。(おそらく興行上の事情もあったのだろうが。)
福助扇雀の祈祷師コンビの名前もそうだが、野田秀樹の言葉遊びは、いささか幼稚に過ぎる。
二つ目は、音楽。これもオペラの原曲に、過度に拘る必要はなかろう。凱旋時の曲を聞いても、オペラで聴く時の感動には遠く及ばないのだし、『浮かれ心中』の宙乗り時のディズニーメロディと同じ程度の効果しかない。(あくまで歌舞伎の下座音楽として楽しむべきで、そういう意味では、充分に満足できる出来栄えであったが、事前に筋書を読んだり、前評判を耳にしていたので、もっと凄い音楽が登場するのかと、思ってしまった。)
三つ目は、配役そのもの。筋書を読むと、勘三郎は最初、濃姫ではなく、別の役だったという。結果からいうと、この濃姫は良かったのだが、愛陀姫が七之助であるのなら、駄目助は橋之助ではなく、勘太郎にすべきだった。その方が二人の恋は一層真実味を増していただろうし、ラストの感動も倍加したはずである。
そして最後に、これはこの作品に対してのものではないのだが、オペラや歌舞伎の旧作などからの書き替えではない、全くの新作歌舞伎を、野田秀樹には作ってもらいたいと思った。(それこそ、「現代の黙阿弥」として、期待したい。)