六月歌舞伎座・夜の部

kenboutei2008-06-22

『すし屋』吉右衛門の権太、芝雀のお里、歌六の弥左衛門、吉之丞の女房、染五郎の弥助、段四郎の梶原、高麗蔵の内侍。手堅い配役と、折り目正しい芝居で、気持ちの良い舞台であった。
吉右衛門の権太は三十年振り2度目とのこと。もちろん、自分は初見。初演時は松緑に習ったそうだが、やはり音羽屋系の芝居は、吉右衛門のニンではないため、権太のすっきりとした味には乏しい。しかし、芝居がうまいだけに、弥助を戸口に呼んで、人相書と見比べるところや、水で目を濡らして母親を騙すところ、それに切られてからの戻りなどは、惹き付けるものがある。すし桶を持っての花道で、足を大きく踏み出して引っ込んでいくところも、印象に残る。梶原が首実検をした後、肩まで上げていた右袖をすっと落とすところは、右肩全体を下げてがっくりするような見せ方で、案外不器用であった。
芝雀のお里、実に田舎の娘が似合っている。最近この手の娘役では、キャピキャピし過ぎる芝居をする役者が多い中、古風で鷹揚なところも良く、自分の中では、宗十郎以来のお里であった。
染五郎初役の弥助は、少し弱々しく作り過ぎているが、維盛になってからは品があり、まずまず良かった。
吉之丞の女房おくらは、二重に座っているだけで、何とも言えない味わいがある。割合長身の身体なのに、小さく丸まった老婆になっているところが凄い。
歌六は無難、段四郎は台詞廻しが古典味のある大きさ。
・・・今日のこの「すし屋」で、何が一番気持ち良かったかというと、どの役者も極めて行儀が良いということ。芯の役者が芝居をしている時は、子役を含めて微動だにせず受けており、誰が出しゃばるでもなく、きちんとした楷書の芝居をしていたのが、何より一番良かった。(古典、特に義太夫狂言では本当は当たり前のことだと思うのだが、最近の歌舞伎座では行儀の悪い芝居も少なからずあるので、余計に良い心持ちになった。)
『身替座禅』仁左衛門の右京、段四郎玉の井に、錦之助の太郎冠者という、新鮮な配役。仁左衛門の右京は、キュートなところが魅力的。この右京なら、全面的に浮気を応援したくなる。ただ、そういう気持ちにさせるのは、一方で段四郎玉の井が強面過ぎて、可愛気がなかったせいも、少しはある。怪奇色の強いメイクアップで、『妖怪人間ベム』のベラに似ていた。小枝に隼人、千枝に巳之助。
『生きている小平次初めて観る芝居。鈴木泉三郎の原作を読んだわけではないが、筋書で紹介されたあらすじと、山川静夫の寄稿文を読む限り、昭和の時代に演じられていたこの芝居は、絶対に今日観たものとは全然違う、別物だろう。
何を言いたいのかというと、福助の演じたおちかである。
この芝居は、おちかをめぐる物語である。旅芝居一座の太鼓打ち太九郎(幸四郎)の女房であるおちかは、以前からその一座の役者小平次染五郎)と恋仲であり、おちかは、小平次と太九郎の間で、揺れ動く。色恋の刃物沙汰に幽霊色を絡める中で、そのおちかの女としての身のこなし方に面白さがあるはずなのに、福助のその場だけの反射的演技が、全てを台無しにしてしまったように感じた。
まあ、「愛欲をのりこえた女の心理の深さとこわさ」という山川静夫の一文を読み、幸四郎の筋書でのインタビューにも「役者の勝手を許さない骨格を持った古典劇」とあったことから、勝手に期待してしまった自分が悪いのだが。
それにしても、江戸を出奔した太九郎とおちかが、小平次の幽霊の気配に怯える中、おちかの方から太九郎にセックスを持ちかける場面で、実際に立ち上がって裾をまくり、白い襦袢を見せる福助は、一体歌舞伎役者として何を目指しているのか、よくわからない。
福助のドタバタホラー喜劇に呆気にとられているうちに、芝居は終わってしまい、極めて消化不良であった。琴松名義で演出した幸四郎の責任も軽くはない。
『三人形』芝雀歌昇錦之助。後味悪い芝居の後、おっとりとした三人の踊りで、少しは気分も晴れた。錦之助の若衆が、本当にお人形さんのように綺麗だった。(今月、錦之助は大活躍。)
一巴太夫が艶のある声で健在。