五月新橋演舞場・夜の部『東海道四谷怪談』

kenboutei2008-05-11

恒例となった吉右衛門一座の新橋演舞場での五月公演。夜の部は東海道四谷怪談の通し。
昨年も触れたことだが、ここでの吉右衛門は、やはり勘三郎&串田コンビを意識しているのだろうなあ。今年も彼らがコクーンで演じたものを選択している。勘三郎吉右衛門も初代吉右衛門に繋がっており、演じる役が重なるとはいえ、今回の『四谷怪談伊右衛門は、吉右衛門初役である。よほど意図的な選択としか思えない。勘三郎コクーン歌舞伎に対する、吉右衛門の正統古典(?)歌舞伎。この二つの比較は、現代歌舞伎を考える上で、面白いテーマになると思う。
さて、吉右衛門民谷伊右衛門は、これまで自分が親しんできた伊右衛門像とは異質の、ユニークなものであった。
色悪としての「色」の部分は薄い一方で、「悪」の部分はまことに大きい。伊右衛門としては、堂々としすぎるくらいだが、そういう伊右衛門だからこそ、「首が飛んでも動いてみせるわ」の台詞に迫力があり、ビデオで観た白鸚を彷彿とさせる。
「元の浪宅の場」で、一旦戻った伊右衛門が、お岩の衣類や蚊帳などを奪って立ち去ろうとする時、花道七三で、宅悦に、「やりそこなったら、これだぞ」と、腰の刀を少し抜きかけてパチりとやるところが、悪の凄みを感じて、良かった。
こういう大きなスケールの伊右衛門なので、隠亡堀のだんまりなどはしっかり絵になるし、「蛇山庵室の場」ですっかり病になってしまっても、他の役者の時は情けないほど弱々しくなるところが、決してそうはならず、悪者としての迫力を最後まで維持していたのにも、感心した。
一方、福助のお岩。これが初役なのかは筋書の中でははっきり書いていなかったが、ともかく自分は初見。コクーンの『桜姫』などからすると、南北ものはさぞニンにあるだろうと期待していたのだったが、全く失望させられた。
もっとも、序幕の福助は、とても良い。白い手ぬぐいを頭から被って、花道から駆け出して来た時は、その色香が劇場内に漂い、いつか福助で『合邦』の玉手を観たいと思ったほどである。(今となっては思わないが。)
しかし、「浪宅の場」も、はじめのうちは神妙でまずまずであったが、「常から邪険の伊右衛門殿」の台詞以降は、失望の連続となった。
福助のお岩には、そのキャラクターに一貫性がない。つまり、性根がないのである。
怒りを表現する台詞があれば自分の表情も険しくなり、母親の形見の櫛を見ての台詞になると途端に猫撫で声で母親に甘えたような仕種をする。表現豊かといえば聞こえはいいが、その場その場で役の性格が変わっている、表層的な芝居。一体、このお岩はどういう女性なのか、全くわからない。筋書で、上村以和於がお岩について、「生きるためには身を売ることしか思いつかない」女である一方、「武家の娘としてのプライド」も持っている点を指摘していたが、福助のお岩を見ていると、そんな考察をすること自体が馬鹿らしくなるほど、中味のないお岩であった。
さらにがっかりしたのは、鉄漿、髪梳きの場面。
福助は竹櫛で歯を扱く時に、「おえー、おえー」とえずくのである。これには目を疑った。二日酔い親父の朝の歯磨き風景を、ここで見るとは思わなかった。
髪梳きになると更に悪ノリし、一旦髪を全部前に降ろして、次にパッと変貌した醜い顔を見せるという手順の前に、宅悦に声を掛け、観客の緊張感の間を外して、笑いを取りに行った。
落語好きな福助だけに、その間は見事なもので、場内は爆笑となったが、『四谷怪談』はドリフのコントではない。おかげで、櫛を入れる度に髪が抜けるという怖さが、まるで感じられない、気の抜けたものとなってしまった。
恐怖の場面に笑いを入れるのは、演出の基本ではあるが、完全にやり方を間違っている。この髪梳きの場面で、怖いと思った客がどれだけいたのだろうか。「最近の客は、怖がらない」ということはよく聞くが、この場は真面目にやれば絶対に怖い場面である。それを崩しているのは、役者の方であり、客に媚びるとはこういうことを言うのではないだろうか。
せっかく正月の常磐御前二月の墨染など、良い芝居をしだしていたのに、これでは逆戻りである。
福助のこんなジェットコースター演技を観るにつけ、吉右衛門の一本芯の通った骨太の演技に、改めて感心させられる。先ほど、吉右衛門伊右衛門は「色」が薄く、「悪」が大きいと書いたが、吉右衛門はそれで一貫しており、時々中途半端に「色」が出るということはないので、観ていて安心していられるのだ。
こういう良いお手本がいるのに、福助がまだ自分の演技プランに拘るのなら、個人的にはこの吉右衛門一座の立女形は、芝雀一人で良い。
福助三役のうち、小仏小平の方は、変に武張りすぎ。
だんまりの時のお花は、すっきりとして良かった。(こういう福助を観たいのだが。)
段四郎の直助権兵衛が立派。江戸市井の生活感が、段四郎の直助や権兵衛を通じて、伝わってくるようであった。段四郎自身も生き生きと芝居をしており、花道で足を踏み出し、型に決まる姿には、若々しさも漲っていた。
序幕で、薬売り藤八と「藤八、五文、奇妙」と揃って歩く姿も楽しい。
歌六の宅悦が堅実。
・・・と、ここまで書いてきて、肝心なことを忘れていたが、芝居としての全体の出来は、コクーン以外の通常の(?)『四谷怪談』の通しとしては、しっかりまとまった、良い出来だったと思う。
そう思った理由の一つは、自分がこの物語の世界の輪郭をだんだん理解できるようになったことにある。これは、一昨年のコクーン歌舞伎・北番のおかげでもあるが、裏の世界である『忠臣蔵』に繋がる塩冶方、師直方に誰がついているのかや、直助権兵衛の役割、上演されない「三角屋敷」のことなどを知っていることで、今舞台で繰り広げられていることの理解も随分深まるものである。それこそ、『隠亡堀』の伊右衛門の母親や、だんまりで直助権兵衛の手に入る廻文状などを見て、その意味するところを理解できて、そこでの芝居の面白さもわかってくるような気がする。
そして、そのことに関連するが、その省略された物語をきちんと理解して芝居をしている、伊右衛門役の吉右衛門、直助権兵衛役の段四郎のうまさが、面白さの第二の理由であった。(特に段四郎の直助は、当初意外な配役と思ったが、味わいのある、素敵なものだった。)