正月新橋演舞場・海老蔵5役の『雷神不動北山櫻』

kenboutei2008-01-06

夜の部を鑑賞。
海老蔵が、鳴神上人・粂寺弾正・不動明王の他に、早雲王子と安倍清行も加えて一人5役(冒頭の口上を入れると6役)に挑戦する、通し狂言『雷神不動北山櫻』
歌舞伎十八番の『鳴神』、『毛抜』、『不動』が入っており、父親の團十郎が演じた平成8年の国立は、印象深かった。
今回は、それまでの戸部銀作脚本・演出から離れて、今井豊茂の脚本、奈河彰輔演出で新たに構成。
結論から言うと、とてもエンターテインメント性の高い娯楽作品に出来上がっていた。
実質3時間程度、上記3つの狂言をつなぐ早雲王子と安倍清行らを絡めた挿話は、まことに他愛無く、とりあえず「ことわりや」の短冊で話をつなげてはいるが、あってもなくてもいいような辻褄合わせで、これを「通し狂言」と称するのもちょっとどうかと思うのだが、まあ、海老蔵出ずっぱりの奮闘公演、ケレン味溢れる演出はサービス満点、まるで猿之助歌舞伎の再現のような楽しさがあった。
狂言として面白かったのは、やはり『鳴神』。芝雀の雲の絶間姫が、随分はじけた演技で、エロチックさをいつも以上に強調していたのは、このテンポアップした通し狂言の中では、似合っていたと思う。右之助と十蔵の白雲坊・黒雲坊が、おおどかな江戸歌舞伎の雰囲気たっぷりで、非常に良かった。こうした相手に囲まれて、海老蔵の鳴神は実に生き生きとしていた。発端につけた「洛中不動堂の場」で、鳴神上人は早雲王子に騙された善人として描かれていたせいで、鳴神上人の超人性よりも、女人を知らない無垢なイメージの方が強くなってしまったきらいはあるが、それも海老蔵の考える新たな鳴神像としては、面白いと思った。注連縄を切った時に昇る竜神は、いつものちゃちなものではなく、幅広で縦長の鯉幟のようなものであったが、こちらの方が、スケール感はある。(ちゃちいのも、慣れてくると独特の味わいがあって捨て難いが。)
『毛抜』も、海老蔵の弾正はすっかり手に入った役となっていたが、驚いた時に、大口をあけて固まるのは、いくらなんでもやり過ぎだろう。
『不動』の方は、空中浮遊というイリュージョンだそうだが、見えないピアノ線(?)で舞台上に浮かぶというもの。何となく不思議な感覚。観客席まで来るのかなと思っていたが、そうではなかった。平成8年の国立も、『不動』は「それだけ?」という感じで物足りなかった記憶があるが、まあ、元々が成田屋不動明王となるのを有り難がるという趣向だけの一幕なのだから工夫しようがないものを、よく考えたとは思う。が、その前の早雲王子からの早替りのせいか、顔が白塗りのまま赤の隈取りをしていたのは、過去の役者の不動明王のイメージからも、そぐわなかった。(海老蔵自身のスチール写真も、地は白塗りではなく、青灰色のように見えたが)
その他の役としては、早雲王子が立派。仁木弾正ばりの花道の引っ込みは、変な笑いは余計だが、顔の凄みは見事、特に横顔が大きく見えて良かった。
安倍清行は、女好きのアホっぽいキャラ設定で驚いたが、舞台から客席に降りるサービスまでしていたのはさらに驚いた。(二列目だったので、間近で見ることができた。) スッポンから出てくる場面もあったが、百歳を超えてなお若々しい陰陽師ということで、妖怪変化と同様の位置づけだったのだろう。
それにしても、海老蔵は荒事がよく似合うなあ。見得の迫力はもはや父親に匹敵する程だ。(もっとも、見得をする時にいちいち唸るのは、猿之助の悪い癖を真似しているようで、玉に傷であるが。)
今回のこの演出、そして筋書のインタビューなどを読むと、海老蔵が向かおうとしているのは、どうも猿之助の目指していた方向と同じような気がする。「四の切」で宙乗りに挑んだのも、今となってはそういうことかと、納得できる。
インタビューで海老蔵は、「歌舞伎探しの始まり」と言っている。凡そ欧米的価値観で育った現代人なら、歌舞伎に対し、必ず一種の疑念を抱くとは思う。(明治維新の時もそうだが) そこから古典というか、江戸歌舞伎というものをどう解釈していくのか、それは今の歌舞伎役者でも様々なような気がするが、果たして、海老蔵がどのような道に突き進むのか、今後がとても楽しみである。(個人的にはスーパー歌舞伎の方向には行かないでほしいが。)