11月国立・藤十郎の『合邦』

kenboutei2007-11-04

今月の国立劇場は、『摂州合邦辻』の通し。藤十郎の玉手。
これまで自分の観た『合邦』では、晩年の梅幸の玉手が一番印象に残っているが、今日の藤十郎は、それを上回る強烈なインパクト。自分の中では、ベストの玉手御前であった。
通し狂言として「合邦庵室」の前につけた各場も、三津五郎秀太郎我當と役者が揃うことで、一定の水準を保っていた。
まず、序幕の「住吉松原」で、花道から登場する三津五郎の俊徳丸、藤十郎の玉手御前が、七三で揃った時の威容が良かった。前髪の三津五郎は、ややくたびれてはいたが、藤十郎の玉手に伍するだけの立派さはあった。そして、藤十郎の若々しさ。今日は花道横の舞台近くで観ていたが、間近で見ても藤十郎は若い。
鮑の盃事の後、俊徳丸の後ろに回って、一旦左側に身体を寄せてから右側に移り、俊徳丸の顔をのぞき込もうとする、恋を仕掛ける藤十郎の若さ、美しさは、ちょっと筆舌に尽くし難かった。
演出の山田庄一によると、この序幕では浅香姫の出る場面をカットしたそうだが、その後も浅香姫の存在感は小さく、できれば主要な登場人物は、序幕のうちに出しておいた方が良かったように思う。特に浅香姫は俊徳丸の恋人であるのだから、それが出てこないと、玉手と俊徳丸、浅香姫の三角関係がわからなくなる。(俊徳丸が玉手からの求愛に動揺するのは、単に玉手が継母だからだけではなく、他に恋人がいるからでもあるはず。)
二幕目の「高安館」は、秀太郎の羽曳野と藤十郎の対決が絶品であった。俊徳丸の後を追おうとする藤十郎に、きっぱりとした台詞廻しで立ちはだかる秀太郎。その言葉の応酬、その後の立回りと、この二人の濃厚な舞台空間が見られただけでも、この通し狂言は価値があったと思う。
花道で何度もよろめきながら引っ込んで行く藤十郎の姿は、どこか『河庄』の治兵衛のようでもあったが。
三幕目の「天王寺」が面白くなかったのは、多分に藤十郎の玉手御前が登場しなかったからだろう。この場は我當の合邦が中心であるが、我當は実直さはあるものの、どこかぎこちなさも感じた。閻魔を囲んで皆で踊り出すのは、文楽でも同じだが、文楽の場合ここはチャリ場で、もっとバカバカしい面白さがあった。次の段の悲劇を前にしてのこうしたチャリ場は、人形浄瑠璃独特の演出で、例えば『熊谷陣屋』の「宝引の段」なども楽しいのだが、こういうのはそのまま歌舞伎化しにくいものであろう。それが、今日のこの場の緩さに繋がっていると思った。
「万代池」の方は、癩病姿の三津五郎の俊徳丸に、序幕の前髪とは打って変わった色気があった。
さて、眼目の『庵室』は、一言でいえば、藤十郎の独壇場。
「しんたる夜の道・・・」で玉手が揚幕から出てくるところ、自分の席からは、振り向くと揚幕の中の藤十郎が見えたのだが、暗闇の中、頭巾を被り、顔だけが白くぽぉっと浮かんでいるのは、今月のチラシの写真と全く同じ、いや、それ以上に妖しい美しさに溢れていた。
動きの一つ一つ、そして台詞廻しの一つ一つが、義太夫狂言の骨格をしっかり守っており、その独特のリズム感が、観ている者に陶酔感を与えてくれる。丸本重視の武智演出の面白さを堪能。
特に、「恋路の闇に迷うたわが身」からの藤十郎の台詞術の迫力は圧巻。「邪魔しやったら、蹴殺すぞ」も、丸本通りに。
他に、玉手が一旦引っ込む時は、座ったまま、母親に引きずられるような形で引っ込んでいったのが、面白かった。(これも武智演出なのかは、定かではない。どちらかというと、藤十郎自身の演出のような気がするが。)
合邦の台詞も、「あほうじゃからじゃ」や「おいやい」などほぼ丸本通りだったが、我當の台詞廻しは分かりやすいがテンポ不足で、聴いていて面白味がなかった。台詞だけでなく、動きそのものが精彩を欠き、総じて物足りない合邦であった。
この場の三津五郎は一通り、扇雀の浅香姫は、勘三郎の舞台でやるような驚き方をするなど、品がなかった。
玉手が戸口で待っている時、翫雀の入平が背後に隠れる場面を出しているが、玉手との位置関係が近過ぎて、どうみても気づかれずに隠れるのは不自然に見えた。もう少し舞台装置か演出に工夫が必要だったように思う。
愛之助の主税之助が最後に出てきて、次郎丸らの結末を知らせるのは、余計な入れ事だなと思っていたが、それを聞いた断末魔の玉手が、嬉しいと呟きながら死んでいく、その藤十郎の笑顔が、儚くも美しく、入れて正解だったかもしれない。
それにしても、藤十郎の玉手は、圧倒的に濃厚で迫力があった。これに対抗できる役者は、この座組では秀太郎ただ一人。三津五郎もまだ遠く及ばない。
「庵室」の武智演出は、是非スタンダードとして今後も残してもらいたいものだが、おそらく演じられるのは藤十郎だけであろう。それが今の歌舞伎の現実でもある。