三月国立・玉三郎の新作歌舞伎

kenboutei2007-03-25

国立劇場40周年記念公演の掉尾を飾るらしい、小劇場での新作歌舞伎。その千秋楽。
公募入選作を、当初は澤瀉屋の若手出演、玉三郎演出で考えていたら、玉三郎が出演も兼ねることになったとのこと。そのせいか、小劇場での公募作品で、正味たった2時間なのに、一等一万円もした。
さて、その入選作は、定年退職後の元サラリーマン(?)が書いたという『蓮絲恋慕曼荼羅』。
これまで観てきた国立劇場の公募作品で、面白いと思ったものはないのだが、事前にプログラムの粗筋を読むと、結構まとまりがあり、初めて触れる「中将姫もの」で、しかも主演が玉三郎ということでもあり、期待は高くなった。
開幕の柝が入ると、録音の琵琶の響きがして、会場が暗くなる。幕があがると、何もないやや傾斜した舞台に、数名の出演者の影。
この瞬間、「しまった・・・」と思った。
最初の柝以外は、歌舞伎から離れた、時々NHK教育テレビの劇場中継で目にするような、普通の現代劇になっていた。
とにかく、上手下手にスライドするパーテーションがあるだけの舞台空間は、あまりに寂しく、それでいて、衣装だけはしっかり王朝ものなので、どうにも落ち着かない。コスチューム・プレイを観ているようであった。
小劇場という制約と予算の関係かもしれないが、正直言って、貧相。プログラムでは、能舞台のようなシンプルさを出したと言っているのも、何だか苦し紛れにしか聞こえない。玉三郎のつけている長髪の鬘も、相当くたびれていたぞ。
いかに玉三郎が主演とはいえ、本当にこれが一万円で見せる芝居なのかと、つい野暮を承知で毒づいてしまった。
プログラムの中では、もう一人の演出者である石川耕士が、『間違っても「これが歌舞伎?」と疑問に思えるような新作にはなりっこありません。』と断言していたが、個人的にはその疑問が何度もよぎり、最後まで拭いさることはできなかった。
実際に応募された脚本を読んでないので何とも言えないが、粗筋だけで判断すると、作者は、もっと古典的な歌舞伎の演出を前提にしていたのではないだろうか。それが完全に玉三郎の好みに変えられてしまったのなら、作者の意図するところではないとも思うのだが、もっとも、作者自身は玉三郎の出演に「舞い上がった」と告白しているので、そうでもなさそうだ。
腹違いの弟に懸想される中将姫のキャラクターは確かに魅力的である。自らの存在、もっと端的に言うと自らの「美しさ」が周囲に悲劇を齎していると考え出家しようとする中将姫に玉三郎が惹かれるのは、実によく理解できるし、玉三郎自身がその役を演じるのに最も相応しいことも、誰もが納得することではある。
しかし、自分が観る前に求めていた(特に粗筋を読んでからイメージした)のは、二重の舞台でツケや竹本が入る、丸本歌舞伎っぽいものだったので、この落差は大きかった。(まあ、このポスターでそんなイメージをしてしまう自分が悪いのである。)
単なる台詞劇として観るなら、十分立派な舞台だったかもしれないが、普段から歌舞伎以外の芝居にはあまり興味を持たない者にとっては、深い感慨は持ちにくかった。(とはいえ、歌舞伎座での玉三郎の『海神別荘』や、菊之助の『十二夜』勘三郎の一連の新作は楽しめたのである。この違いは何なのだろうか。歌舞伎と現代劇の境界について、改めて考えさせられる。)
段治郎の豊寿丸は、姉への純情な愛から生じる行動に、今ひとつ説得力がない。姉のために死ねる純愛がありながら、平気で他人を殺す矛盾に、観客の方がなかなか感情移入できない。元からの異常性格者だったらまだすっきりするが、そうでもなさそうで、何だか中途半端。
笑三郎、右近が堂に入った演技で感心。
玉三郎は、玉三郎。豊寿丸のことを、「ほうじゅ〜」と震えるように呼び掛けるのが、個人的には好み。
全体に舞台の正面を向かないで芝居をするのは、多分意図的なのだろうが、例えば、猿弥の嘉藤太の前で死を覚悟する時、後ろ向きで祈るのは、できれば正面を向いて欲しかった。(この場で、嘉藤太が中将姫の神々しさに狼狽える時に流れる不思議な音楽が良かった。)
それにしても小劇場だと、本当に役者との距離が近い。前から7列目くらいだと、玉三郎の皺まではっきり見える。(だからあまり正面を向かなかったのか?)
終演後、当然のようなカーテーンコール。千秋楽だったからか、その後、玉三郎の口上があった。(いきなり外題を間違っていたのがご愛嬌。国立劇場での思い出や研修生のことなど、プログラムでの織田紘二との対談と同じようなことを言っていた。)
会場が明るくなると同時に、再び柝が入り、追い出しの太鼓の音。最初と最後だけは歌舞伎風。
もう一度、違う演出で観てみたいものだ。