『海野十三敗戦日記』

読了。

「日本SFの父」海野十三の、東京に空襲が来てから敗戦に至るまでの間を綴った日記。戦時中の日記を読むのは、永井荷風山田風太郎以来だが、都内に居を構えている今読むと、地理関係も含めて、より当時が現実味を帯びて胸に迫った。
日記のはじまりが、(昭和19年)12月10日で、偶然、同じ月日に読み始め、62年前の東京(海野は帝都と書いている)の上空には、アメリカのB29が飛来し、焼夷弾を落としていったのだという事実を、深くかみしめた。
海野十三の日記は、最初の頃は割り合い暢気で、

十二月十六日
珍しく昨夜は米機きたらず、したがって起きずに済んだ。六日以来毎夜きていたものがこないと、ちょっと調子はずれの形。人間は環境になじむ性質が強いと感じた。

などという感想を漏らしている。また、12月27日の日記には、B29が墜落したのを見て、

錐もみの敵機や冬日うららかや

と句まで詠んでいる。(他にも数句書いてある。)
ところが、あの3月10日の東京大空襲前後からは、どこが焼けたとか、親族の安否等、余裕はなくなっていくのが、読んでいてもつらい。
広島の原爆投下を知った日の日記には、原爆がもたらす影響について、極めて冷静に分析しているところが、科学者ならでは。終戦後の9月3日の日記には、

私も思う。なぜ、原子爆弾をいきなり使ったか、降伏しなければ投下する、と予告しなかったのか。私はこの点が合点が行かぬ。その予告の下に投下すれば、アメリカ側ももっと寝覚めがいい筈であったろうに。
原子爆弾で広島に起こった地獄図絵を画いて、アメリカはじめ各国へ配ってはどうかと思う。そしてかかる惨虐行為が再び行なわれないようにしたい。

と綴っている。残念ながら、どんなに凄惨な絵や映像を世に送り出しても、世界から(原爆ではないにせよ)かかる行為がなくなる気配はない。
ちょうど、『父親たちの星条旗』を観に行った13日に、海野の日記で硫黄島について触れた日(2月25日)を読んでいたのも、何かの偶然か。
いま一度、山田風太郎の『戦中派不戦日記』も、読み返したくなった。