秀山祭・夜の部

kenboutei2006-09-16

9月歌舞伎座も、もう半ばを過ぎた。
『菊畑』何度観ても睡魔を抑えられない「菊畑」。今日もうとうとしてしまったが、そんな中で断片的に思ったことがいくつかあった。

  • 幸四郎の智恵内、その風貌は、奴の滑稽味があって面白い。骨張った顔つきが、写楽の描く嵐龍三に似ていると思った。(例えば、第二期に描かれた浮世又平や、第三期の大判、奴なみ平など。)
  • 染五郎の、虎蔵は、歩く時に、口を開けて頭を動かすので、馬鹿っぽく見える。(染五郎の若衆姿は、いつもそんな感じだ。)
  • 芝雀の皆鶴姫、赤姫の品の良さと、しっとりとした濃厚感があり、とても良かった。

左團次の鬼一、歌六の湛海はあまり印象なし。(つまり、終盤の一部しか起きていなかったということです。)
『籠釣瓶』歌舞伎に興味を持ち出した頃、何冊か入門書のような本を買ったが、その中の一冊に、学研の「ファンタジックワールド歌舞伎」というガイド本があった。カラー表紙が福助の八ツ橋で、その美貌に強く惹かれ、自分にとっての八ツ橋のイメージは、その後テレビの特集で観た歌右衛門でも、最初に歌舞伎座で観た雀右衛門でもなく、実は福助の、この表紙の姿がずっと脳裏に残っていた。その福助の八ツ橋をようやく観ることができた。
前回観た八ツ橋は、勘三郎襲名の時玉三郎。この時の栄之丞が仁左衛門だったこともあり、八ツ橋は、本当に栄之丞を愛していたので、ああいう愛想尽かしとなったのだと理解したのだったが、福助の八ツ橋もまた、玉三郎と同じく、栄之丞を愛する故の愛想尽かしであったと感じた。しかも、福助の場合、次郎左衛門への縁切りに、何のためらいもない。かつての歌右衛門雀右衛門は、どちらかというと次郎左衛門への義理や情に絆されて、栄之丞に対してもおろおろし、愛想尽かしの場でも、言葉ではきっぱりというが、心の葛藤が滲み出るという感じであった。しかし、福助は、次郎左衛門に対して、何の感情も持っていないようであった。(そこは、玉三郎とはちょっと違うところだ。玉三郎の場合、栄之丞を愛している一方で、次郎左衛門に対しても、何らかの気持ちを残していたように思えた。)
ここまで冷徹な八ツ橋を観るのは、初めてである。これでは次郎左衛門も、殺したくなるというものだ。
そして観ている方は、この八ツ橋には感情移入できない。(それは、八ツ橋と関わる栄之丞や次郎左衛門を誰が演じるかによっても影響されることだが。まあ、そもそも八ツ橋の行動自体が、とても共感できるものではないのだが。)愛想尽かしを終えて、座を後にする時、九重に向かって「察してくれ」と言うのも何だかむなしく聞こえ、その後の引っ込みの型も、大仰でわざとらしいとさえ感じてしまった。また、感情が高ぶると台詞が絶叫調になるのも、困るところだ。
ところが、この冷徹な八ツ橋が、極めて美しいのもまた否定できないのである。特に、次郎左衛門が「花魁、それはあんまり袖なかろう」と言う場面で、吉右衛門の台詞を長煙管を立ててじっと聞き入る姿の、福助の美しさは、絶品といってよい。うーん、何だか不思議な八ツ橋だ。
眼目の花道の笑いはどんなものだろうと期待していたが、福助は、花道に入る手前、まだ本舞台にいるところで、笑っていた。もっと七三近くまで行ってからだと思い込んでいたので、後で昭和50年の歌右衛門のビデオで確認すると、今日と全く同じで、花道手前だった。ついでに、前回の勘三郎襲名の玉三郎で確認したら(ようやく「勘三郎箱」を開封した。)、玉三郎は、花道から少し入ったところで笑っていた。
微妙な違いだが、舞台上か花道に入るかで、次郎左衛門との位置関係は随分変わる。福助歌右衛門の場合、次郎左衛門とは平行線上にいるので、ちょっと横目で見て、笑い返すという感じになる。一方、玉三郎のように少しでも花道に入ると、わざわざ次郎左衛門を振り返ってから笑う。この振り返るという動作が加わる分、八ツ橋の気持ちに変化があったと解釈できるので、この立ち位置は非常に重要だと思う。
そして、福助の笑い自体は、歌右衛門のを意識しつつも、歌右衛門ほどしつこくなく、より自然な笑いであった。
前回の玉三郎の時に、この笑いについて、歌右衛門のように時間をかけて笑わないのが自然で良いと書いたのだが、その時は、この立ち位置の問題には気がつかなかった。歌右衛門のあの笑いは、八ツ橋の次郎左衛門に対する気持ちの変化を、笑うまでの表情の変化で表していたのだ。だから時間がかかった(と感じさせた)のだろう。しかし、これは歌右衛門一代の芸であり、玉三郎は、その立ち位置を変え、振り返るという時間を作ることで、その変化を表現したのではないのだろうか。
だとすると福助の場合、立ち位置は平行線でありながら、歌右衛門とは異なりあっさりと笑ってしまう八ツ橋であり、そこに次郎左衛門への気持ちの変化など、全くなかったということになる。その後の福助八ツ橋の態度からも、それは納得できるものではあるが、そもそもの八ツ橋の役作りとして、それが正しいのかというと、疑問は残る。やはり、ここでの笑いは、八ツ橋の方にも何らかの意味があったのだと、自分は解釈したい。
笑いといい、縁切りといい、この芝居の八ツ橋は、行動心理がすっきりしない分、色々考えさせる不思議なキャラクターだ。
この芝居は、どうしても八ツ橋の方に関心が行ってしまい、吉右衛門の次郎左衛門については、あんまり書くことがない。ただ、見染めの場では、これは勘三郎のもそうなのだが、あまりに口を開けて惚けすぎである。
台詞の調子は相変わらず良く、いくつかの場面で、自然と拍手が起こっていたのは、さすがであった。
幸四郎立花屋長兵衛を付き合ったので、吉右衛門とのやりとりも見られたが、両者ともに、あまりに淡々としすぎて、面白味は全くなかった。
それにしてもこの芝居、今の役者の中では、次郎左衛門は吉右衛門幸四郎勘三郎しか演じていない。八ツ橋の方も、福助玉三郎雀右衛門藤十郎のみ。もっと他の役者でのバリエーションがあってもいいのになあ。(團十郎の次郎左衛門なんて、きっと良いと思うのだが。)
『鬼揃紅葉狩』「鬼揃」は猿之助ので一度観たことがあったが(勘九郎玉三郎共演だった。)、今回は少し演出が違っていた。
染五郎の更科の前、見た目はすっきりと美しいが、話し出すとボロが出る。
前回玉三郎が演じた、維茂らを目覚めさせる神様の役に、御曹司の子役が数人出演(一人でいいのに)。その中で、一番小さい玉太郎が、立派。見得の時に、思いっきり足を踏み出すのが、可愛い。
大詰めの立回りで、久しぶりに心地の良いツケ打ちを聞いた。
幸四郎吉右衛門の兄弟競演の熱気も、いつのまにやら冷めたような、そんな感じもする、夜の部であった。(昼の部はどうなっているのかなあ。)