人生を超える瞬間が映画にある:MIZOGUCHI 2006 

kenboutei2006-08-24

マリオン内の有楽町朝日ホールで開催された、『没後50年 溝口健二 国際シンポジウム』へ。
一昨日、コンビニの券売機で購入した前売券の整理番号は、630番台。今日行ってみると整理券は650番までで、入場は一番最後となったが、幸運なことに前方の座席がまだ空いていた。おかげで、めったに見られない映画人を間近にすることができた。
司会が蓮實重彦山根貞男。両人とも初めて拝見するが、雑誌「リュミエール」等で、学生時代の自分の映画観に多大な影響を与えた「蓮實先生」を間近にし、その声の良さと、格調高く、時に挑発的な話しっぷりを堪能できたのが、まずうれしい。
セッション1は、「日本における溝口」。1小説家、3監督の構成で、溝口について語るのだが、話の流れが、「監督というのは、ひとでなしだ」という方向に収斂し、それほど面白味はなかった。パネリストのコメントに、司会の蓮實先生は、鋭角な問いかけをするのだが、それをうまく切り返しきれていなかったのも、ややもどかしかった。パネリストの一人に『ALWAYS 三丁目の夕日』の山崎貴監督が招かれ、あの映画の一場面が溝口の『雨月物語』に影響を受けているのではないか、という蓮實先生の質問に、「その時は気づかなかったが、そうだろう」と監督が答えていたのが印象的だった。『ALWAYS 三丁目の夕日』はそれほど興味がなかったが、蓮實重彦は「三浦友和に涙した」そうで、ちょっとDVDでも取り寄せようかな。
セッション2は「女優の証言」。香川京子若尾文子が、別々に登場し、山根・蓮實のインタビューに答える。
香川京子の何と美しいことか。青地の着物姿に品があり、1931年生まれで今年75歳になるとはとても思えないほど、若々しく楚々としている。最後にビクトル・エリセ監督が花束を贈呈し、今日一番の盛大な拍手となった。
そして、若尾文子。20代の後半、若尾文子にどっぷりはまり、今はなき大井武蔵野映画館に通いつめたり(あそこはよく増村保造監督の特集をしていた。)、青森県に勤務していた時には、むつ市で開催された、川島雄三映画祭にも行ったりした思い出がある。
香川京子より2歳年下だが、舞台女優としてまだ現役の貫禄が、白い着物からオーラとして発せられていた。受け答えもいかにも女優で、司会の二人もややたじたじ、といった感があった。とにかく、自分にとっては憧れのスターでもあり、それが変わらぬ美しさで目の前に現れたのは、まさに夢のようで、かなりの感動が胸に込み上げたのだった。(芝居で演じているのを生で観るよりも、今日のインタビューの方がリアリティがあって、ああ、若尾文子に会った、という感激が強い。)
セッション3は、「助監督の証言」。「難しいこと言ってないで、映画は楽しめばいいんだ。」という田中徳三老監督の発言に、両司会者は押し黙り、会場の一部からは、強い拍手が起こった。
セッション4、「世界が見た溝口」。フランスのジャン・ドゥーシェ、スペインのビクトル・エリセ、中国のジャ・ジャンクー。おそらく観客の大半は、ビクトル・エリセの発言に一番注目していたのだと思う。エリセ監督は、兵役時に門限を気にしながら溝口映画を観に行ったエピソードを、実に味わい深く語った。そのスペイン語の口調は、控え目だが音楽的で、まるでエリセ監督自身の映画のモノローグのようでもあり、これもまた、この贅沢すぎるシンポジウムの、崇高な一場面であった。このエピソードの中で、エリセ監督は、「時に映画は、人生を超える瞬間があるのだ」と語り、それを蓮實先生も後から再確認していた。
通訳を介すので、一人の発言にも倍の時間を要し、数十分延長したにもかかわらず、実際のエリセ監督の話は、それほど多く聞けなかったのが残念ではあるが、とにかく上の言葉が、今日のシンポジウムの至言であることは間違いない。
ダニエル・シュミットの死を悼む蓮實先生の発言でシンポジウムのセッションは終了し、最後に最近発見された溝口のサイレント映画の一部、『朝日は輝く』と『東京行進曲』を上映。
ともに1929年の作品で、『朝日は輝く』は、大阪朝日新聞社の活躍を描くPR映画、『東京行進曲』は、芸者を巡る昼メロのような映画であった。
午後8時過ぎに終了。凡そ8時間は、あっという間に過ぎていった。香川京子若尾文子、それにビクトル・エリセまで参加し、これで入場料2,300円というのは、申し訳ないくらいだ。
帰り際、エリセ監督が気さくにファンのサインの求めに応じていた。自分も近くにいたので、もらえばよかったかな。
・・・わざわざ会社を休んで来たかいがあった。