七月歌舞伎座・夜 泉鏡花月間

kenboutei2006-07-29

泉鏡花月間の今月は、昼夜ともに幕間が45分の一回だけという他に、幕開きのかなり前から観客を座らせるよう誘導している。みんな大人しく座って待っているが、それでも遅れてくる客はいるので、果たしてどれだけの効果があったのか。
『山吹』
何と言うか・・・。映画では「トンデモ映画」という表現があるが、これはさしずめ、「トンデモ芝居」。(この表現は今思いついたのだが、他に自分が過去観た芝居の中で、「トンデモ芝居」にあたるのは、国立で富十郎がやった『大力茶屋』かなあ。まあ、あれは懸賞作品で、むしろ「トホホ芝居」と言った方がいいか。)
人妻が男を追い掛け、旅先で告白するが拒絶される。絶望した女は、酒に酔った人形遣いの老人に、望みを叶えてあげると持ちかける。老人の望みは、自分を傘で打ってくれること。女は老人を打擲し、それを見て驚く男に、嫁姑の愚痴をさんざん告げたあげく、老人と共に生きる決意をし、男は二人のために媒酌人をつとめ、自分は仕事があることに気づく。
鏡花の原作を読んだ時も目が点になり、こんなSMショーみたいなものをどうやって歌舞伎座にかけるのだろう、と半分訝しみ、半分期待していたのだが、やはり舞台も目が点状態となってしまった。
満員の観客は、終始静か。寝ているか、ぽかんと戸惑いながら舞台を見つめている様子が、一階後方の座席からでもよくわかる。ある意味、アバンギャルドな劇場空間であった。
(もしこの芝居を、今国立でやっている鑑賞教室に出したらどうなるだろう。小中高生は、寝てるか、爆笑するか、トラウマになるか・・・まあ、そんなことはあり得ないのだが。)
泉鏡花ブランドと、三島由紀夫が評価していたということを忘れて、純粋にこの戯曲を読んだ時に、果たして今の時代に上演しようと思うだろうか。『山吹』は、今月の鏡花四作品のうち、唯一人間しか出てこない物語ではあるが、人形遣いの老人と女は、人間世界を捨てようとしており、そういう意味では、人間界と異界の境界線上での物語には変わりなく、同じテーマ上にある他の作品と比較して上演する意義があることは認めるが、それにしてもあまりにマニアックすぎる。(今回、観劇前に原作の文庫本2冊を読んだのだが、個人的には『山吹』の代わりに『多神教』を出してほしかった。村の卑俗な信仰心を茶化してしまう展開が面白く、また、道成寺や三代目田之助の話なども出てきて、こっちの方が歌舞伎座での芝居に合っていると思う。)
いくら玉三郎の趣味だからといって、これでは演じている役者が気の毒だなあとも思ったが(筋書の、歌六のインタビューを読んでますますそう感じた)、そんな中でも、笑三郎の演技は、特筆すべき良さであった。
上手奥より、すーっと登場するところから、大正期の女性(といっても、現実に大正期の女性を知っているわけはないのだが、まあ、夢二の絵の世界かな。)となっている。また、台詞が粒立っており、ストーリーは理解不能だが、台詞の一つ一つはしっかりと伝わってくる。
段治郎からウィスキーを飲ませてもらうところ、段治郎の手を取るところなどの横顔は、見惚れてしまう。
笑三郎の代表作の一つに挙げても良い程の、大奮闘であった。
帰宅してから、改めて原作をパラパラと繙いてみた。例えば、女と人形遣いが杯を交わす時に登場する稚児を呼び戻す場面では、鏡花のト書きは、「この光景怪しく凄し。妖気おのずから場に充つ。稚児二人引戻される。」とあるが、今日の舞台では、あっさりと呼び戻しており、妖気の片鱗すら感じられないものであった。
今回の『山吹』の演出は、現代の観客にも話が伝わるよう、わかりやすさを心がけていたのだろう。しかし、それによって、鏡花が描こうとした、そうした「妖気」が全く欠落した芝居になったのかもしれない。
演出次第では、また違った鏡花の世界が観られるのかもしれないと、一瞬思ったが、多分、再演されることはないだろうな。(筋書の上演記録を見ると、人形遣い天本英世が演じている。死神博士人形遣いは、是非観てみたかったものだ。)
貶しているのか褒めているのかわからなくなったが、とにかく、後々、観たことを自慢できる作品ではあろう。(それが、「トンデモ芝居」だ。)
天守物語』
前に観た平成11年の時は、雀右衛門の一世一代の八重垣姫もあって、「天守」が終わったのは午後9時45分、もの凄く疲れたが、充実した思いで家路についた記憶がある。(自分の観劇歴の中で一番遅い終演時間だった。アバウトな歌舞伎っぽくて、こういうのもアリだなと思ったものだが、今回のタイム・スケジュールからすると、多分商業演劇としては、マズかったのだろうな。)
幕開きから、観客の反応が『山吹』とまるで違う。何となくホッとした雰囲気。
前半の亀姫とのやりとりは、あまり面白味を感じなかった。この場は、天守の異様な世界を紹介するだけに留まっており、初めて観た時は、その雰囲気に圧倒されたが、二度目となると、何となく飽きてきて、眠気さえ覚えた。
また、正直言って、亀姫と富姫の関係は、春猿玉三郎より、前回の菊之助玉三郎の方が、自分には一番しっくりくる。(「二人道成寺」などを経て、ますますそのイメージが強くなってしまった。)
背景にスクリーンを用いて、急変する雨雲や雷光などをうまく表現していたが、富姫や亀姫が行き来するのまで、青い光や赤い光で見せたのは、この幻想的な芝居にはそぐわない気がした。ウルトラマンの登場とは違うのだから。
しかし、この場での玉三郎の鏡花の言葉を操る技術は、凄いものがある。とっつきにくい鏡花の台詞廻しを、緩急自在で自分のものとし、観客に伝えている。従って、観客も前の芝居とは違って、舞台に集中し、台詞の一つ一つに反応できる。(それ故に、場違いな笑いも起こってしまうのだが。)
後半、図書之助登場から、いよいよ面白い。
海老蔵の図書は、無垢な若者。これは、昼の部の公子にも通じる、ピュアな造形であるが、図書の方が生身の人間である分、説得力があった。
富姫と図書之助の恋のやりとり。「図書は、富姫を見て初めて女というものを知った。」ということを、ある評論家から聞く機会があったが、海老蔵玉三郎の二人の世界は、まさにその通りであった。
富姫が図書に向かって、「白銀、黄金、球、珊瑚、千石万石の知行より、私が身を捧げます。」と言うところで、自分は、「白銀、黄金、玉三郎」と聞こえ、観客の一部からも笑いが起こった。鏡花の台詞を大事にしている玉三郎が、こんなところでギャグを入れるはずはないと、気になって後で確認すると、「球、珊瑚」だった。(ちょっとした「空耳アワー」だった。)
右近の朱の盤は、いつもの右近の台詞廻しで、普通の歌舞伎すぎた。
上村吉弥の薄は、前回と比べると大分老けが入ってしまった。
猿弥の桃六は、台詞にエコーが入る。前に観た時は羽左衛門で、この時は、エコー入りの録音だったような気がしたが、違ったかな。
今回は、あまり疲れずに歌舞伎座を後にできた。