『アルジャーノンに花束を』

kenboutei2006-07-27

ダニエル・キイスの原作を読んだのは、中学生の頃だったと思うが、当時はまだSFファンの中だけでの名作で、世間的に有名になるのは、80年代以降だろう。
映画公開当時の邦題は、『まごころを君に』。アメリカでの上映タイトルは、主人公の名前をとって『charly』。日本でのDVD化の際、キイスのオリジナル・タイトルに変えたのは、それだけこの小説が、特に日本で、高い人気になったからだろう。今では、テレビ・ドラマ化もされ、ダニエル・キイス文庫なんてのもある。(一時期、若手の女優や女性歌手などの愛読書によく名前が挙げられていたような記憶がある。)
自分にとっては、この前観た『渚にて』同様、幻の映画であったのだが、あれだけ原作の人気が高いにもかかわらず、映画の方がそれほどでもない(存在さえも知られていない?)のも、何となく頷けた。
原作では、精薄者の主人公が脳手術を受けて天才となり再び精薄者に戻る過程を、本人の日記形式を中心に展開させていくのだが、映画の方は、主人公チャーリーの変化の様子を、外形的演技力で見せる手法を取る。(それ故、映画の原題が主人公の名前となり、チャーリー役のクリフ・ロバートソンがオスカーを受賞さえしたのだろう。)
小説と映画の表現形式の違いといってしまえばそれまでだが、もう少し工夫があってもよかったのではないだろうか。知識や理解力を得ることで世界が開けた喜びと、それ故に失ったもの、知らなくてもいいことまで知ってしまった苦悩などを、原作にはない(と思う。記憶がない)、学会での発表時のチャーリーの演説で終わりにしてしまうのは、あまりに粗雑すぎる。
映画は、この学会発表シーンがクライマックスで、この後、チャーリーが元の状態に戻って行く過程はほとんど描かれず、最後、突然、子供と一緒に舌を出しながらブランコに興ずる、チャーリーのストップ・モーションで終わってしまう。(「これで終わりか?」と思わず仰け反ってしまった。) 
アルジャーノンに花束を贈ってくれ」と気に掛けるチャーリーの供述にも全く触れず、ある意味「お涙頂戴」的展開となる後半の物語を意図的に排除したとも考えられる。だとすると、監督のラルフ・ネルソンは、オリジナル・タイトルを名乗らない(この展開だと名乗れない)だけでなく、原作とは違う別の何かを描きたかったのかもしれない。
時折挿入される60年代サイケ調の映像が、ちょっとお茶目だったこと以外、自分には、その意図はわからなかったが。

↓『まごころを君に』の邦題の頃は、こっちの絵柄。昔、欲しくても買えなかったサントラ(LP)の表紙もこれと同じだった。(音楽はラビ・シャンカールが担当していたのね。)

↓もはや説明の必要もない、原作。早川書房は、この本だけはずっとハードカバーで売っていたのだが、今は文庫本(新書?)もあるようだ。
アルジャーノンに花束を
ダニエル キイス Daniel Keyes 小尾 芙佐
早川書房 (1999/10)